「もしもし、あら、セイジくん、東京に帰ってたの?久し振りだねえ。15年振りかしら?」
お盆休みの帰省中、母が留守の間に取った電話の相手は僕にとって特別な存在の人だった。
「あ、フミコおばさん?ご無沙汰してます。母は今、買い物に出掛けてますが......」
「大した用じゃないからいいわよ。それよりあんたは元気なの?転勤族って聞いているけど、今はどこに住んでいるんだっけ?」
「今は家族で長野に居ます。そろそろまた転勤の話しが出そうなんですがね。おばさんの方はどうですか?体調を崩してるって母に聞きましたが......」
「病気は相変わらずよ。でも何とか生き延びているわ。元気でピンピンしていた旦那の方が先にコロッと逝っちゃったけどね。私はあんたのお母さんに遊んで貰っているからね、おかげさまで楽しく過ごしているよ。死んだ妹の分も長生きしなきゃね。あ、いけない、余計な話しだったね......」
僕が高校一年生の夏休みの事だ。母の学生時代からの大親友であるフミコおばさんは僕に姪のユリコを紹介してくれた。 おばさんが住む千葉県へ引っ越してきたユリコは、背が低くくて顔は程よく日焼けし、髪はかなりのショートだった。特に好みのタイプでは無かったけれど、日焼けした顔から覗く白い歯、笑顔がとてもチャーミングだった。
同い年で音楽の趣味が同じだったり、部活も同じ水泳部だったりと気が合った僕達は、自然な流れで付き合い始めた。
明るくて、自然体で、いつも笑顔を絶やさないユリコに僕は惹かれていった。学校には仲の良い女友達が何人か居たけれど、彼女達と話す楽しさとは違い、ユリコと過ごす時間は恋を意識した特別なものだった。
僕は高校を卒業して静岡の大学に進学し、一人暮らしで4年間を過ごした。その後、就職先は東京に本社が在る企業に決まり、また実家に戻ることになった。
ユリコは4年間の遠距離恋愛の間に、看護学校に通い、僕より2年早く卒業し、割りと大きな総合病院に就職した。そして、看護師になった姿を見届け、将来を誓い合った僕らの報告を聞いて間も無く病弱だったユリコのお母さんは永遠の眠りについた......
「お母さんが居ないのなら、またあとで架け直すわ。セイジくん元気でね!」
「いや、もうすぐ母も帰ると思いますから、もうちょっと僕と話しましょうよ」
ユリコは一人っ子で、お父さんを早くに亡くし、病弱なお母さんとの二人暮らしだった。子供の居ないフミコおばさんには何かと面倒を見て貰っていた様だ。千葉に引っ越して来たのも、世話焼きのフミコおばさん夫妻が近所に呼び寄せたからだ。
「私の可愛い妹のたった一人の大切な娘だからね。セイジくん、ユリコを泣かせたら承知しないよ!」僕もフミコおばさんには小さい頃から可愛がって貰っていたから、おばさんの気性は分かっていた。豪快で口は悪いけど、気は優しく、僕らの交際をとても喜んでくれ、影で支えてくれた。
「あんた今年でいくつになったの?息子さんも大きくなったでしょう」
「おばさんに最後に会ったのは僕らの結婚式でしたよね。あの時僕は27歳でしたから、今年は42歳の本厄ですよ。息子は13歳で中学一年生です。カミさんは今年で35歳になりました」
ユリコと僕は結局結ばれなかった。彼女が勤務先である病院のドクターと結婚してしまったからだ。僕らが23歳の時だった。
「セイジを嫌いになった訳じゃないのよ。セイジよりもっと好きな人が出来てしまったの。私が看護学校を卒業出来たのもあなたの励ましや支えが有ったからだと今も感謝してる。母が亡くなった時もそばにいてくれてとても心強かった。そんなあなたを裏切る事になって、本当にごめなさい。でもね、心はね、心は止められないの。もっと早く打ち明けるべきだったね」ユリコに別れを切り出された時、どんな慰めも、どんな綺麗な言葉を投げかけられても、突き付けられた現実の前には僕の胸に届かなかった。 ユリコは病院に勤務し始めた頃から10歳年上のそのドクターと付き合い始めていた。最初は強引な誘いを断わり切れず、嫌々会っていたが、いつしか心惹かれてしまったのだという。
僕との結婚を望んでいたフミコおばさんはかなり落胆し、ユリコの結婚生活には危機感を抱いていたと母から聞いた。
「あの娘に一目惚れした病院の息子が両親の反対を押し切ったってさ。うちら庶民とは住む世界がまるで違うってのにうまくいくのかねえ......」
僕はユリコにふられた4年後に職場で知り合った今の妻と結婚し、2年後に息子が生まれた。妻は口数は少なく、大人しいけれど心根の優しいしっかり者だ。
僕がユリコへの想いを断ち切れてやっと幸せをつかんだその頃、皮肉な事にユリコが離婚したと母から知らされた。生活習慣が違う向こうの家族と折り合いが悪く、おまけにマザコン気味だった旦那に捨てられる様に家を出たという話しだった。
フミコおばさんも母も、僕の結婚を境にユリコの話しは一切口にしなくなったが離婚の事実だけは知らされた。その後の彼女の消息は僕には分からない。敢えて知ろうともせず、そっと心に蓋をした。つもりだった......
「あのう、おばさん......」
「なあに?どうしたの?」
僕はユリコの消息を聞こうか少しだけ迷った。
「い・いえ、なんでもないです。久しぶりにおばさんの声が聞けて良かった......」
「あんたさあ、自分の家族だけを見て、しっかりと家庭を守りなさいよ!」
僕の気持ちを察したようなおばさんの一言でそのまま受話器を置いた。本当はふとした時にユリコを思い出し、無意識のうちに妻と彼女を比較している自分にハッとする事もあったのだ。心の蓋は完全には閉められないんだ......
辛い想いを沢山したであろうユリコ。今はどこでどんな生活をしているのだろう......
フミコおばさんの声を聞き、長年くすぶっていたそんな想いが少しづつ疼いてきた......
それから約半年後、フミコおばさんの訃報を母からの電話で知った。最期を看取ったのは母一人だった。
「フミコおばさんはね、セイジには絶対にお見舞いに来させるなって言ってたの。半年前の電話でお前の気持ちの何かを感じ取ったんだよ」
ユリコのたった一人の肉親だったフミコおばさん。そのおばさんの最期の時にも葬儀にも彼女には連絡が取れなかったらしい。
おばさんの死に対しての悲しみも大きいけれど、ユリコとの最後の繋がりが切れてしまったという何ともやり切れない、絶望感とは少し違う表現し難いこの想い。これでユリコにはもう逢えないという現実は、僕の心を複雑に揺さぶるのだった。
「ねえ、セイジ、おばさんはね、お前にユリちゃんを紹介して本当に申し訳ない事をしたって、私に会うたびに言っていたわ。おばさんに罪は無いのにね。お前に好きな人が出来て結婚した時、本当に心から喜んでいたし、安心していたんだよ。だからねセイジ、お母さんの言いたい事とおばさんの想い、解るよね......」声を詰まらせる母に僕はただ頷くだけだった。
受話器を置いた後、肩を震わせ、こらえ切れない涙を拭いながら、しばらく電話の前から動けなかった僕。何も知らない妻は、ただそっと僕の手を取り、寄り添ってくれる。
その手の温もりにハッとした。そうだ、僕にはこの愛しい妻と息子の笑顔という守らなければならない大切なものがあるんだ。妻は微笑みながら何度も頷き、僕の涙をそっと拭ってくれた。
何処かから、フミコおばさんの豪快な笑い声が聞こえた気がした。
Fin
あとがき
夏になると想い出す人がいます......