しんとした冬の夜、窓の外は雪景色が拡がっている。
澄んだ空気が満天の星空から音もなく舞い降りて、そろそろ夢みる時間ですよ、と、告げている。でも、六才になる息子、タカヒロが眠れないと言う。
「 うんとね、眠りのための物語りを聞かせてあげる 」 あたしが言うとタカヒロが言い返す。
「 ねぇ、お母さんが働いているスーパーの、冷凍庫のお話しじゃないよね 」
「 もちろん 」 といいながら、あどけないタカヒロの、すべすべとした小さな手を握りしめて、あたしは物語りを想い浮かべる。母親らしいことは満足にできていないけれども、物語りの世界では、タカヒロを王さまにしてみたり、あたし自身がお姫さまにも変身できる。
こころの、奥深くのノートに記(しる)されている、モノトーンな文字列が色づきはじめて、ふっと浮かび上がる。カラフルに変身した文字列たちは徐々に膨らみはじめて、ぱん、弾けてスライドフィルムとなる。それは淡い記憶の光りによって投影されている。光りの輪郭を、そっと指さきでなぞりながら、あたしは物語りを読み上げていく。もちろん、タカヒロをやさしく見つめながら。
「 むかしむかし、といっても、それほど昔のことではないけれど、パーティーで王子さまとお姫さまが出会いました 」
「 お母さんもパーティーにいたの? 」 と、タカヒロが聞く。
「 残念ながらいなかったわ 」
夫、孝明と居酒屋の合コンで知り合ったなんて、幼いタカヒロには言えない。
「 お姫さまは、異国の王子さまが好きになり、王子さまの耳元でささやくように、パーティーを抜け出しませんか、と誘います。
誰かを好きになる、というのは、まず、頭のあたりが熱くなりはじめて、その熱く不思議なものが身体中を駆け巡り、指さきから、魔法みたいな、目には見えない熱を伝えようとするの 」
違う会社の、どんなことをやっているかさっぱりわからないけれども、孝明へと、あたしから声を掛けた。理由なんてわからない。誘った。
「 でもね、いくら好きだからといっても、うまくいかないときもあるの。王子さまは、いろんな国へ出掛けることが増えてしまい、お姫さまとはあまり会えなくなってしまいました。 けれども、王子さまは、お姫さまがどこの国でも入れるようにと、特別な計らいをしてくれました。その気になれば、お姫さまは、いつでも、王子さまの出掛けている国へと行くことができるのです 」
孝明は、会社の人事異動で海外出張の多い部署の配属となり、電話やメールばかり、実際に会えるときが限られてしまった。だからなのか、よくわからないけれど、孝明は、あたしにパスポート取得を勧めた。英語なんてできないし、孝明の出掛けている国まで、どうやって行けばいいのかなんて、さっぱりわからなかった。
ただ、ずっと、ずっと遠いところだということだけを感じていた。
「 ある冬の夜、王子さまは悪魔と出会い、戦うことになりました。悪魔はあまりにも強くて、負けそうになります。
王子さまの悲痛な叫びが、ずっと、ずっと遠い異国で戦っている王子さまの声が、お姫さまに届きます。いても立ってもいられないお姫さまは、王子さまの元へ、助けに行くことを決めます。お姫さまにとって、知らない国の、知らない街の、悪魔はとても怖かったけれども、王子さまに逢いたい、という想いに突き動かされたのです 」
*
七年前の米国ミシガン州、デトロイト・メトロポリタン空港から東京をめざし飛びたったデルタ航空、DL275便。離陸してからまもなく、天空からのダウンバースト、異常な下降気流に巻き込まれて、機体ごと地上にたたきつけられて、ばらばらとなり炎上した。そして、乗客乗員合わせて198名、すべての人が死んだ。世界を駆け巡るニュース報道、デルタ航空DL275便、搭乗者リストのなかに、カタカナで書かれた孝明の名前を見つけて、意識が遠のく。
けれども、あたしは孝明を迎えに行かなければならない
生まれて初めてパスポートを使い、生まれて初めて、あたしは日本を出国した。高度一万メートル上空、暗闇を飛ぶ飛行機に乗って、ごうごうと聞こえるジェット気流の音を聞きながら、何も食べず、眠らず、ただ、ひたすら神さまに祈り続けた。すべては間違いなんですよ、と誰かさんに否定してもらいたくて。
米国に着いて、焼け焦げた、炭化した黒い固まりをいくつも見せられて、誰なんだかわからなくて、でも、それは孝明がひょっこり生きている、わずかな可能性にもつながっていた。
でも、神さまなんて、いやしない
米国滞在の三日め、解剖された、ある遺体の内部から、墜落のときに必死に書き留めて、のみ込んだ日本語のメモが出てきた。それが、この世に残されたあたしへの、孝明からの最後のメッセージであると伝えられた。
仁美 愛してる ごめんなさい
*
「 王子さまはどうなったの? 」 ほんのり、眠りの世界への橋を渡りはじめたタカヒロが心配している。だから、あたしは答える。
「 もちろん、悪魔をやっつけて、王子さまとお姫さまは結ばれました 」
タカヒロは眠りはじめている。あたしは、記憶の光りを指さきでなぞりながら物語りを読み続けている。
もちろん、あどけないタカヒロの寝顔と、タカヒロの血のなかにいる孝明を見つめながら
あとがき
人を好きになる、それは生きる糧にもなるかなぁ、なんて視点で書いた過去作です。
コメント一覧
ゼニゴンさんの作品は一行目から確かな手ごたえでこちらに迫ってきます。この作品はかわいらしい子どもと優しいお母さん、子どもの中に亡き夫を見る女性の心が描かれていていてすてきです。
展開がうまい!
表現もうまい!
内容も良い!
まとまっている!
心の機微が出ている!
本作品はどれをとっても一級品だと思います。
短文ながら、女と妻と母の3つの立ち位置が凝縮されているのも美味しい!