「誰もいないところまで連れて行って」
……そう呟いたのだけれど、同じタイミングで溶いた卵がじゅう、と音をあげた。熱せられたフライパンと溶けたバターで温もっていく台所に立ちすくむ。貴方は私の言葉には気づいていないようだったけど、それでよかったのかもしれない。
「卵にクリームチーズとレモンを混ぜるんだ。お砂糖もね。メレンゲと合わせてふわふわに焼く。僕の大好きなメニューだよ」
私は相槌を打ちながらその横顔をちらりと盗み見た。二重のパチリとした瞳、シャープな輪郭、耳の形、上がった口角、特に目を奪われる、金色の髪の毛。一本一本きらきら光る彼の髪は、自毛ではないけれどとてもよく馴染んでいた。私よりいくつ年上なのかもわからないのに永遠に年を取らない子供のような貴方は、得体のしれない天使みたいだ。
「貴方って卵を片手で割っちゃうのね。すごいわ」
視線をフライパンに戻してそう言うと、彼は照れた様に笑った。その手元では弱火でじっくりゆっくりとオムレツに熱が通っていく。
まだ寒い春の朝にぴったりな、仄甘い湯気が小さな部屋を満たしていくのを感じる。全身にこの香りを纏っていれば一人だって寂しくないと、そう思えそうな香りだった。
「おいしそうね。レモンのいいにおい」
私が独り言のように言うと、すぐに菜箸が卵の端っこをちょい、と形が崩れないよう切り取った。
「はい、味見してよ」
「……おいしい。そんなに甘くないけど、さわやかな味」
自然と顔がほころぶ。
「そうだろそうだろ。それは端っこだからね。ふわふわとろとろのところはもっと美味しいよ」
キッチンの小さな窓から忍び込む日差しが私たちを包む。早く食べたい、楽しみ……と、そう思ったのは本当だ。でも、私はこのうすっぺらな切れ端だけでいいと思った。身に余る幸せがこわい。今が幸せの頂上なら下り坂をすべりたくない。
「はい、できた。お皿を貸して…もう一度レモンをかけるよ」
彼に渡されたお皿を持って窓際のテーブルへ向かう。いただきますを言って、ふわりと軽い、羽のようなオムレツに切れ込みを入れる。フォークで一口食べると、一瞬で口の中にクリームチーズの風味が広がった。わたあめ?いや、スフレみたいな……何とも言えない感触でほろほろと崩れるオムレツはとても美味しかった。しゅわっと溶けて、私が食べているのは何?と、思考が一瞬止まるくらい。
頬杖を付いて感想を待っている彼に笑顔で美味しい、と言うと負けないぐらいの笑顔が返ってきた。
一瞬、瞬きをした拍子に彼がそっと左手を伸ばす。向かいに座っているからその指が私の頬に触れるまではほんの数秒だった。その数秒の間に私はさっきガス台の前で食べた切れ端も美味しかったなぁ、むしろそっちのほうが好きだったかも……なんて考えていた。
あれだけで十分なの。本当に、それでいいの。
私が腕の中に抱いていた小さな小さな幸せまで溶けて無くなって、今まで頬ずりをするように愛していたものは何だったのか、分からなくなってしまいそうだから。
華奢で大きな手が優しく右頬に触れると、左指の指輪が当たって冷たかった。私は何もはめられていない自分の左手薬指を目で見てから、顔を上げて笑い声を零した。
「うふふ、本当にありがとう……おいしい」
彼も微笑んで、そしてまた作ってあげるよと私を虜にした声で言う。あったかい、甘い、優しい匂いがする、香ばしくて、しゅわしゅわと羽のよう……けど、もう一度食べたいとは思えなかった。貴方は卵を割るように、ヒビさえ入ってはいけない体裁というカラも割ってしまったのだ。こつん、といとも簡単に。こうやって、片手で頬を撫でるように。
「誰もいないところまで連れて行って……」
今度は心の中で呟いた。これ以上割れないように。貴方に決して聞こえないように。
あとがき
前身のサイトさんでは「小春」という名前で投稿していました。その頃の文がまだ残っているのでなるべく大きな直しはせずに再投稿しようかな……と。いや~懐かしい。新しいのも含め、これからもちょこちょこと書いていければと思います。
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