ひかり

  • 超短編 1,080文字
  • 日常
  • 2017年11月10日 04時台

  • 著者: 鰯崎 友
  • 「夜明け前の、いっとう明るい星が合図だ」

    闇夜のなかでセリムが言う。国境警察の、見張り番の交代のタイミングを見計らい、セリムを中心とした年長のグループが、ぼや騒ぎをおこす。それに乗じて国境を越えるのだ、と。

    漆黒の木立に小さな身を潜ませながら、アレクサンドレは、内戦がはじまる以前、父と母に連れられていったドゥラスの映画館に思いを馳せる。エントランスに敷き詰められた固い臙脂色のカーペットを踏む足の感触。そして光と闇を隔てる大きく重い扉。幼いアレクサンドレは、そのときに観た映画がどんなものだったのかを覚えていない。ただ、生き別れになった父と母、そして兄との思い出として、映画館を訪れた記憶をいくども反芻している。すえたような黴の匂いと人いきれ。客席のあちらこちらから、さざ波のようなひそひそ話が少年のもとに打ちよせる。人々は密やかな愉しみに興じている。アレクサンドレはふと、不安を覚える。闇のなかで、自分の隣にいるのは、はたしてほんとうの兄か。父と母は、ほんとうにそこにいるのか。兄の名前を呼ぼうとしたつぎの瞬間、背後からひとすじの光が放たれる。海はもう、観客席から消え失せている。人々はひそひそ話を中座し、いまや一心に光の放たれた先を凝視している。映画がはじまる。いくばくかの不安を抱えたアレクサンドレを、光が導く。

    「どうした、アレクサンドレ、行け、はやく行け!」

    我に返ったアレクサンドレの隣には、父と母、兄ではなく、孤児集団のリーダー、セリムがいる。アレクサンドレは、慌てて今夜すべきことを思い出す。ぼや騒ぎで警官の注意が逸れたときを狙い、国境をこえる。ギリシアに入ったら、難民孤児たちが隠れ家にしている、森の廃屋へと行くのだ。高鳴る心臓の鼓動が、闇に少しずつこぼれてゆく。

    「セリムは」

    「俺は大丈夫だ、行け、アレクサンドレ!」

    セリムはこうやって、混乱と暴力に満ちた地獄から、何人もの孤児を外の世界へ逃してきた。彼に従えばすべて上手くいく。やせっぽちだが、勇敢で、頼りになるセリム。どうか無事で。アレクサンドレは急いでセリムの元を去る。藪の中を這いつくばって進むと、今夜、ともに国境をこえる孤児たちがいる。

    「ギリシアにも犬はいるかな?」

    ひとりの少年が追いついてきたアレクサンドレに囁きかける。

    「いるさ、スピロ。たくさんいる、たぶん」

    「よかった。ぼくは犬が好きなんだ」

    安堵の表情を浮かべるスピロ。孤児たちははまるで羊のこどものように身を寄せ合い、きれぎれの白い息を吐き出している。やがて、東の空にセリムの言っていた合図の星があらわれる。

    金星。明けの明星。ひかり。

    【投稿者: 鰯崎 友】

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    コメント一覧 

    1. 1.

      参謀

      長編小説の一節を読んでる感覚に陥りました。その後この子供達がどうなったのか気になります。


    2. 2.

      1: 3: ヒヒヒ

      参謀さんと同じような感想を抱きました。アルバニアから逃れてギリシャに渡って、彼はどんな生涯を過ごすことになるんでしょうか。


    3. 3.

      鰯崎 友

      参謀さん、ヒヒヒさん、コメントありがとうございます。この作品はテオ・アンゲロプロス『永遠と一日』からヒントを得て書きました。アンゲロプロスが描くところによると、ギリシアに渡ったアルバニア難民の少年は、癌に冒された詩人と出会います。


    4. 4.

      20: なかまくら

      映画館の回想が事態を忘れて一緒に楽しめる感覚になって、面白いです。
      最後に羊、それから、犬の好きな少年が出てきて、不穏に感じるのは私だけでしょうか。


    5. 5.

      鰯崎 友

      なかまくらさん、コメントのお返事遅くなり恐縮です。
      希望と、不安の入り混じった様子をかくように心がけたので、不穏な要素はあると思います。