差別がしたい。わたしは、差別がしたい。
そのようなよこしまな考えを頭に秘めて、わたしは日々を過ごしている。
恐怖とともに。
自らの悪性に対する恐れと、まわりをひしめく正義がいつかわたしを殴り殺す予感。
おのれの魂は自らのコントロールにないという絶望が日々積み重なる。
わたしがあの朗らかな人たちから習った"善し"とされる事柄は、わたしの嗜好にとって何の価値もなかった。
劣ったひとを惨めな目にあわせるのがすきだ、弱ったひとに泥をかけて遊ぶのがすきだ、敗者を好き放題に罵るのがすきだ。
自分より弱い存在にふるう暴力が快感であることを頑なに認めない世界は地獄だ。
わからないのだ、なぜ正直であれないことで苦しみを味わなければいけないのか。
これではまるで、正直など悪徳ではないか……。わたしを嘘と悪性に板挟みさせた奴らはほとんど悪魔の手先ではないか……。
呪い、としてこれを誰かに手渡すことを思いついたのがつい昨日のことだった。
いま、わたしはこうして海を前にして空の瓶に言葉を詰める。開いた者の頭に響くように。
地獄を自覚するな、と。
暴力は正義に隠し、無自覚に悪意せよ。差別者を差別し、盗人を罵れ。嫌いな奴には陰口を叩き、気づかれたなら目をそらすのだ。時間がすべてを洗い流すことに期待しろ。そのあわいこそが平和だ。
平和なんてほとんど化け物だ。
コメント一覧
冒頭から差別がしたい、で始まったので驚きました。
そのようなよこしまな考え=やってはいけないこと、と分かっている時点で善悪が分かっており、理性もある。
その善悪や理性が邪魔をして、やってはいけないこと=やりたいこと、ができず、苦しむ主人公。
最後は、この苦しみを瓶に詰め、海に流す。
おそらく、瓶を拾った人は理解できないと思いました。
もし、やってはいけないことをやったらやったで、この主人公は罪悪感で苦しみそう。そしたら、また、「善し」を植え付けた人を恨むのかな。延々と幸福になれず、苦しみのループは続きそう。
憂さ晴らしの方法としては、例えば弱い者いじめをする小説でも書いて、想像上で満足させるしかないのかなと。
哲学の香がして好きです。
こうあらねば、というのは苦しい。
でも、その社会に居場所を求めるならば、どうしても必要。
ひとつの社会が大きくなりすぎているのかなあ。