食いしん坊

  • 超短編 2,397文字
  • 日常
  • 2017年04月15日 12時台

  • 著者: 爪楊枝
  •  「妻はいなくなった」

     橋田の一言は彼がおかれた状況を説明するのに十分だった。青ざめた顔、血の気のない唇、小刻みに震える頼りない背中は、修羅場を見たかのような印象を抱かせる。不自然なほどいつもと変わらぬ部屋の中に、ただ良子さんだけがいない。黒髪が美しい彼女はとても気の強い女性だった。いつもケンカが絶えない夫婦であることは心得ていたが、来る時が来てしまったのかという感慨が湧きあがってくる。今にも自殺を考えそうな、虚ろな瞳は、なんとかしなければという思いに駆らせた。
    「釣りにでも行かないか」そんな呟きを洩らしたのは、彼が釣り好きであり、食いしん坊であったからだ。娯楽と食事で悲観的な気分を追い払えるかもしれない。その言葉を聞いた橋田は驚き顔で見つめてくる。
    「飯山、釣りなんて気分じゃないよ」そう答える顔からは血の気が引いていた。
    「気分転換が大事だろ。ほら、さっさと行くぞ」有無を言わせず、釣り道具とともに橋田を家から引っ張り出した。最初は抵抗していたが、一人でいることに耐えられないと思ったのか、諦めたようにおとなしくついてくる。

     橋田の家の近くには手ごろな広さの池があった。私と橋田はよく二人でここに釣りをしに来ていた。というのも、水は澄み渡りヘラブナはもちろんのこと、鯉などの美味しい川魚も釣れるからだ。今日は昨日の大雨の影響で濁っていたが、そんなことを気にしている時ではない。
    「よし、今日の夕飯を釣り上げるぞ」そう声を張り上げ、撒き餌を池に投げ込む。橋田は後ろで所在なさげに、佇んでいるが、あえて声をかけない。いくつか釣竿を手にとって、鼻歌交じりに置き釣りを始めてみる。餌はマッシュポテトに小麦粉を加えた練り餌。鯉狙いの餌である。それを見て、ピクリと体を震わせた橋田は明らかに挙動不審だ。しばらくは釣竿を準備する作業に費やし、それが終わると、近くの手ごろな石に座り込んだ。橋田などいないかのように釣りに興じること二十分、突然、釣竿に反応あり。
    「来たか」急いで立ち上がると竿を掴む。魚との勝負の始まりだ。互いに相手の見えない綱引きは濁った水面を通して行われる。力で相手を押し切るか、フェイントで疲れさせるか。まさに釣り人の腕前が如実に表れる場面だ。しかし、相手も必死に逃れようともがく。その引きは命を懸けたものなのだ。すさまじい力に池に引き込まれそうになる。それを丹田に力を込めて堪え、力の方向をいなす様に変えてやる。相手が疲れた隙を見逃さず、一気に竿を引き上げる。魚影が浮かんでくると、いよいよ網の出番だ。だが、手が足りない。このままでは逃げられるというタイミングで、左の横合いから網が飛び出してきた。その網は正確に獲物を捕らえると、すばやく水上に引き上げた。
    「やっぱり堪えられなかったみたいだな。釣り好きの性ってやつかい。なぁ、橋田」意地悪な顔で橋田を見ると、すこし吹っ切れたような表情がそこにはあった。
    「まあ、そういうことにしておくよ」橋田はようやく笑顔を見せた。

     二人で釣りを始めて約二時間、日が中天に上る頃、釣りはひと段落ついた。釣りあげられた魚たちはバケツの中で右往左往している。食べられるような魚を除いて、必要ない魚は池に戻す。これがマナーだ。そうして魚を逃がしてしまうと、獲物の数はかなり少なくなった。しかし、大物の鯉が二匹釣れたので、二時間の釣果としては十分だろう。
    「さて、帰ろうか。」釣り道具を携えると橋田とともにもと来た道を引き返す。二時間で橋田はすっかり元気を取り戻したようだ。こうやってネガティブな気持ちを吹き飛ばすことが出来れば、これからの方策も見えてくるだろう。

     橋田の家に帰り着いて、まずはきれいな水の入ったバケツに二匹の鯉を移し替えた。こうやって泥を抜かないと、泥臭くてとても食えたものではない。一日ほど入れておけば完全だが、今日中に食べて精力をつけようということに決まり、半日入れておくことになった。夕飯の案が出来たところで、まずは昼飯を食べることにした。
     ご飯に味噌汁と漬物、そして買ってきた秋刀魚を焼いたもの。昼にしては豪華な献立だったが、朝早くから釣りをしていたため、多いとは感じなかった。
    「もう、吹っ切れたか」満腹になった腹を叩きながら、橋田の方に顔を向けた。
    「もう大丈夫だ。自分のしたことの結果は受け入れた。もうどうにでもなれ」橋田の顔には少しやつれた色があったが、空元気も元気のうちだ。
    「橋田、状況に収拾を付けるための手助けは惜しまないからな、手伝えることがあるなら何でも言ってくれ」この言葉は紛れもない本心だった。
    「ありがとう、飯山。こんな友達がいて、俺は本当に幸せだよ」橋田の双眸は潤み、顔を情けないくらい皺くちゃにした。
     妻に事情を説明して、今日だけは橋田につきあうことにした。せっかくの休日は台無しだが、大学時代からの友人を放ってはおけなかった。一日中くだらない雑談をしながら、部屋の中で寝そべって過ごした。

     そして、夕飯はお待ちかねの鯉料理である。二人で相談した結果、今回のレシピは「うま煮」に決まった。切り身を砂糖醤油で煮るというシンプルな料理だが、鯉で作ると本当に美味しい。鯉を生で食べようとする人もいるが、有棘顎口虫という寄生虫の宿主になる魚なので、火を通さないと危険だ。
     まずは、鯉をさばかなければならない、正確に包丁を入れていき、内臓を取り出す。そこで手が止まった。何かが内臓の中にたくさん詰まっている。気になってまな板の端で切り開いてみる。そこから出て来たのは艶やかな黒い糸であった。いや違う。髪の毛であった。髪の毛が内臓の中にギッチリと詰まっている。気味が悪くなって包丁をとり落とすと、後ろから笑い声が聞こえた。振りかえると、そこには橋田がいた。

    「まったく、珍しいこともあるもんだ。あの池の鯉は食いしん坊なんだな」
    橋田はニヤリと笑った。

    【投稿者: 爪楊枝】

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    コメント一覧 

    1. 1.

      爪楊枝

      この作品は初めて書いた超短編小説です。
      昔の自分はこんなだったなぁと思い出してしまいますね。
      楽しんでいただければ幸いです。


    2. 2.

      1: 3: ヒヒヒ

      覚えてますこの作品。
      「いたじゃないか」と並ぶ、爪楊枝さんのサスペンス作ですね。
      最初何気なく読んだ部分が、後になってがらりと意味を変える。
      超短編ならではの面白さがあると思います。