恐ろしく甘い異常者の体

  • 超短編 2,869文字
  • 恋愛
  • 2020年07月27日 22時台

  • 著者: Lucy
  • 気がつくと僕は果樹園の中にいた。

     いや、果樹園というよりは桃源郷のような……辺鄙で呑気な空気が漂っている。見渡す限りが木。薄桃色の実がぶら下がっている木だらけで、おかしな夢だと冷静に考える。木々の合間から見える空は写真を貼り付けたように動きがない。ここはどこだろう。足元には僕の分の足跡しかない。

    「水ノ江くん」

    後ろから名前を呼ばれて、僕は振り返った。そこに立っていたのは見覚えのある女の子だった。

    「天倉さん……」
    「よくも殺してくれたわね」
    「君が自分で死んだんだ。君みたいなの、メンヘラって言うんだよ」
    「誰のせいだと思ってるの?」

     そうだ、僕はあの日……いつものようにヒステリーをおこした彼女が鬱陶しくなって、口論になって、とち狂った彼女が『死んでやる』なんて安い言葉と共にカッターナイフを自らの喉元に突き立てて……。僕はそんなところから血が出ている様子なんて見たことがなかったから、慌てて駆け寄って、だけど遅くって、それで……。

    「まぁ、いいの。それよりも。ねぇ、どれが私の心臓だかわかる?」

     天倉さんは目を細めて問い掛けてきた。僕は質問の意味がわからなくて首傾げる。彼女の手がするりとのびて、僕の手を近くに生った桃の実へと導く。どくん。手のひらから小さな衝動が伝わってくる。心臓。これは果実じゃない、心臓だ。生暖かくて、絶え間なく鼓動を生み出している。

    「私の心臓を当ててみて。そうして、早く」

     彼女の言葉の途中で、嫌に生ぬるく強い風が吹いた。心臓を実らせた木たちはざわざわと揺れ、まるで雑踏の中にいるみたいだと思った。途切れた言葉を言い直す訳でもなく天倉さんは続けて言う。

    「ほら、私の心臓を当ててよ。そうしないとここから出してあげないんだからね」

     彼女が首を傾けるたびにサラサラとした髪が揺れる。白いシャツを来た天倉さんはもう一度僕の手をとって自身の左胸へと導いた。柔らかな胸の奥からは一つの音もしないし、温度もない。僕はちらと周りを見渡した。広大な果樹園、数え切れない心臓。

    「相変わらず君って唐突で独りよがりだね」
    「元恋人なのに冷たいのね。じゃあいいわ、水ノ江くんはずぅっと、ここにいたらいい」

     まいったな、と頭をかかずにいられない。もともと粘着質な性格だと思っていたけれど。今この状況が悪い夢でも、もしくはあの世に引きずり込まれたとしても僕は早く帰りたい。当てずっぽうにそこらの桃に手のひらを当ててみる。これか?……いや違う。違うのかもわからない。あれか?……いや違う。じゃあ誰の?なんて聞かれたってわからない。果樹園の奥へ歩を進める僕の後ろを、天倉さんは楽しそうについてくる。いくら探しても本物なんてわかるわけがない。僕は早くここから出たい。

    「私、水ノ江くんがほんとうに好きだったわ」
    「そう……僕もそれなりに好きだったよ。でもキスをしたあたりから君はどうもおかしくなったんじゃない?」
    「あははは。そうかもしれない。水ノ江くんって私のことよく理解してくれるから、そこも好きだったのよ」
    「ありがとう。君って全部を知ってほしいタイプなんだね」
    「うん。全部、ぜーんぶぜんぶね」

     話ながらも僕は絶えず桃の実のような心臓に手を当てていく。でもどうしたって彼女の心臓がどれかなんてわからない。甘ったるい桃の香りは嫌いではないけれど、天倉さんの囁くような声とこの香りで胸焼けを起こしそうになっている。そのうち空が暮れだして僕はすっかり疲れ切っていた。

    「もうムリだよ。答えを教えてくれ」
    「根性なし。……ああそうだ。生きてた時みたいに呼んでくれたら教えてあげる」
    「……うーん。本当に?」
    「水ノ江くんに嘘なんてつかないよ」

     実を言うと、僕は彼女の下の名前を呼ぶのがあまり好きではなかった。その名前を呼ぶと彼女はいつも微笑んでくれるのだけれども、その微笑みが僕は怖かった。小さい頃に絵本で見た微笑む三日月の笑顔を思い出し、得体のしれない深い穴の底を覗き込んでいる気持ちになるのだ。それでも、今はここから逃げ出したい気持ちのほうが強い。

    「わかったよ。由衣ちゃん」
    「ふふ、うふふふふふふ。やっぱり私はそう呼ばれるのが大好き。約束通り教えるわ。私の心臓はあれよ」

     彼女が指差したのは少し離れたところにある背の低い木に生っていたものだった。近づいて手に取ると、他のものとは違いひときわ深い桃色だった。重みがあってずっしりと、熟れた桃の匂いがする。

    「それ、食べてみてよ」
    「グロテスクだね。僕にそんな趣味はないんだけどなあ」
    「私は幸せ。好きな人に食べてもらえるなんて。さぁ、早く食べてしまってよ」

    彼女の言葉が途切れた時みたいに、遠くから強い風が吹いてくる。

    「もしも僕がこれを胃に収めたら君はどうなるの?」
    「どうなると思う?」
    「質問に質問で返さないでくれよ。そうだな、夢が覚めてハイ終わりだといいね」
    「最後まで冷たいのね」
    「じゃあ最後に優しくしてあげるよ。君は僕に何を、一番して欲しい?」
    「うーん……その桃、私の心臓をむちゃくちゃに咀嚼して飲み込んで欲しいかな。ねぇ私今初めてキスする直前みたいな気持ちよ。とっても嬉しい」
    「うん。あの時と同じ顔だなぁって思ったよ」

    がしゅっ。

     歯を突き立てた途端、果汁のようなものが溢れ出した。複雑な味ではないし果肉は柔らかく舌みたいで温かい。僕の口の中でそれが変形していくごとに、目の前の景色は暗くなっていく。水に絵の具を垂らしたように輪郭はぼやけ、目の前の果樹園と天倉由衣がひらひらと溶けていく。

    「本当は私の全部を食べられてしまいたいの」

     暗転していく視界の中で天倉さんの声が小さく聞こえた。もうやり残したことはない?薄れゆく彼女に問うと、意味深な笑みで返された、ような気がした。ひたに甘い桃味の心臓を飲み込むと世界は完全にただの闇になった。



     目を開けると、僕は鯨幕でふちどられた式場の中にいた。さっきまでパステルカラーの世界で隣にいたあの子はモノクロの冷たい世界で額の中にいる。表情は最後に見たのと同じで、笑っている。
     僕はパイプ椅子から立ち上がりすすりなく同級の女子たちや並べられた献花をすりぬけ外に出る。彼女の母親らしき人が、「あの子もこんな若くに。もっとやりたいことだってあっただろうに」と泣き崩れていた。葬儀場の外は肌寒く、暮れていく空が茜色や薄紫にたなびいている。

    「一番の望みが僕に食べられることか。異常者め」
    ぽつりというと、「正解。私の心臓はどうだった?」と、どこからかあの声が降ってきた。

    「そうだね、砂糖漬けみたいに甘かったよ」



    気がつくと僕はプラネタリウムの中にいた。

     いや、プラネタリウムというよりは本物の宇宙のような……辺鄙で呑気な空気が漂っている。見渡す限りが星。紺色の背景に散らばった金平糖のような星屑だらけで、おかしな夢だと冷静に考える。薄く伸びた雲の合間から見える月は写真を貼り付けたように動きがない。ここはどこだろう。足元には僕の分の影しかない。

    「どれが私の眼球だかわかる?はやく飲み込んで」

    後ろから名前を呼ばれて、僕は振り返った。

    【投稿者: Lucy】

    あとがき

    これもかなり懐かしい話です。でもお気に入り。

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