あの頃の記憶がよみがえる。ざらざらとした白っぽい金属の床、壁。その壁に灰色をした蜘蛛がジッと止まっていた。
「うわわぁあっ!!」 少年の声が響いた。
「きもっ!」「誰か、殺して!」 何人かが固まる。手には、どこから拾ってきたのか、鉄のパイプを持っている。一人が息を浅く吸って、それをゆっくりと振り上げる。
やめたらどうかな? と、その様子をなぜか上から俯瞰的に眺めている自分が言おうと、口を動かそうとする。動かないから、これが現実でないことになんとなく気づき始める。
何度目かわからない嘆息をして、身体の力を抜いた。
もはや、どうしようもないのだ。
この後、この蜘蛛は信じられないほど素早い動きを見せて、逃亡を図る。「うわああっ」と少年少女たちは叫び、鉄パイプを振り回す。そのうちの一つが直撃し、ぐしゃりと潰れる。金属と金属がぶつかって響きあっている。そして、その少ない体液が目に留まることもなく、蜘蛛は再び動かなくなるのだ。そうして、この夢は終わる。
梅坂(うめさか)は自分の呻いた声で目が覚めた。ゆっくりと時計を見て、急いで支度を始める。極軽量の合金を編んだ防刃の下着を着込み、その上から、シャツを着る。買いだめしてあった携行食料をポケットに突っ込み、脛まであるブーツを履いてアパートの玄関を出る。「行ってきます・・・あ、」 扉を閉めようとして、奥の部屋から覗く、緑の影に気づく。「悪かったよ・・・ミルバス」 鳶蜥蜴のミルバスが、舌をチロチロとさせて抗議の目を向けていた。携行食料をもう一つ、袋から取り出して放って投げる。「これで勘弁してくれ、遅刻なんだ」 不満顔のミルバスを扉の向こうに残し、会社への道を急ぐ。
上層へと向かって積み上げられた建物。その外壁に据え付けられた階段を登っていく。
「梅坂!」 19階層で同僚の戸栗(とぐり)が合流してくる。
「今日は起きたか。今日の暦屋の予測情報、見たか?」 横に並んだまま、上層への階段を駆け上がっていく。
「まだ」 手を差し出す。
「忙しくなるぞ」 受け取ったチップを右腕のデバイスに差し込むと、情報がダウンロードされる。あと20秒。
上空には、人工太陽が青白い発光を伴って浮かんでいる。暦屋からの情報は、その運航予定に関するものだ。
「今月、日照量、少なすぎないか・・・?」 梅坂は今月何回目かのボヤキを漏らす。
「去年、博波地区の現職議員が負けたからなぁ・・・」 戸栗が同じ問答を繰り返す。
「汚職議員だった」 上層部分の増築資金を横領していたのだ。
「確かにしょうもない男だった。ただ、見えない役割を果たしていた、ということなんだろうな」 自分たちで選んだ道なのだから、仕方がない。そう言って、戸栗は話を区切った。会社のある上層階へのゲートが見えてきていた。
会社で、仕事道具を受け取ると、高速昇降装置で地面に降り立った。金属とは違う、土の踏み心地。人工太陽の光が遥か遠くに見える、薄暗い世界だった。
「相変わらず、くっせーな」 戸栗が毒づいて、
「マスク、してるだろ」 梅坂は冷静なコメントを返す。
「気分だよ、気分!」 カビとコケに覆われた世界。大昔に作られた建物の大半が背の低い植物に覆われているが、一部は、未だに住民がいる。窓に火の明かりが揺れているのが映っていた。IDを持たない、旧市民と呼ばれる住民たちだが、実際には犯罪者や流れ者が多かった。
「さて、と。早速お出ましだ」 奇妙な生物だった。黒い胴体は殻のように固い。ところが蜥蜴のように滑らかな動きをする。その胴体を被るようにして、仄かに発光する本体が中に見えていた。
「リドカリ」 その生物の名前を梅坂は気が付けば呼んでいた。
「ヤドカリみたいだろう?」 初めて連れられてここに来た時に、戸栗にそう言われた。臆病にも見える、発光する本体。あの頃の記憶が何故かよみがえっていた。白い壁にジッと止まっているあの蜘蛛の姿だった。
「こいつらが集まってくると、災害が起こる。こいつらな、身を守るときに酸を出すんだよ。それで、上層都市を支える柱が腐食しちまう。災害を呼ぶ生き物なんだ。駆除しなくちゃな」 戸栗は慣れた手つきで、道具を構えた。
やめたらどうかな? とはそのときは言わなかった。それを仕事に選んだのだから。実務的に処理をしていく、仕事に心やその優しさは求められていないことは分かっていた。
ところが、何故だろう、今日は目の前の「リドカリ」から目が離せなかった。今頃、朝ご飯の携行食料を食べ終え、物足りない顔をしている鳶蜥蜴のミルバスの顔が浮かんだ。今まで積もった雪をただ崩すようにその命を壊していたというのに、初めてリドカリに個性を感じてしまったのだ。
「危ないぞ!」 戸栗がリドカリの甲殻を強くたたいた。ぎぃぃん、と金属同士がぶつかったような音が響いて、近くの建物の窓ガラスが割れた。梅坂はハッとする。蜘蛛は潰れたが、リドカリは潰れることなく、そこに未だドウといるのだ。
「ボーっとするな。人が襲われた例もあるんだ」 戸栗が痺れる手を振っている。
リドカリは、手足を縮め、甲殻の内側に閉じこもっていた。人を襲う? 人が襲っているの間違いではないか。襲うから、身を守るために酸を出す。酸を出しているのは、自分と違うものを排斥しようとするからではないか。その、人間の臆病さからではないのか。
梅坂は、手を伸ばして、甲殻に触れていた。奇妙な感触だった。たくさんの銀を縫い付けた中世の鎧のような、滑らかなのに、手を切りそうな鋭利さを隠し持っている。生き物という感触だった。
「おい、梅坂? お前一体どうしたんだ・・・」
「連れて帰らないか?」 梅坂はそう言った。
「はぁ!?」 戸栗が呆気にとられた顔をしている。
「連れて帰りたい」 梅坂の心はゆっくりとだが、確実に決まっていた。あの頃言えなかった言葉を、言うのであれば今だと思えた。
*
暦屋は、40階層にある。1階層は10階前後の高さの建物からなり、居住区として提供されているのは、40階層までだった。その上は、オフィス街と、地区の統治機構が占めている。統治機構は、政府、裁判所、占星の三権からなっていた。暦屋はそのうちの占星、すなわち天候や天災、天や地から放出される氣の流れを読む人たちの集団であった。
「安芸(あき)様」 梅坂と戸栗は、暦屋の安芸の元を訪ねていた。
市井(しせい)との関係を大切にし、その意を汲む暦屋は、直接選挙で選ばれる政府の人間へと助言を行う組織であった。そのため、市民であれば、訪れれば話を聞いてもらえた。
「難しい顔をして、来られましたね。梅坂と戸栗」 安芸は、二人を抑揚の少し乏しい声で出迎えた。手元のタペストリーを編みながら、その糸目を観ているのだ。
「仕事・・・のことですね。二人は害獣駆除の仕事」
「その通りです」 梅坂が答える。
「そして、問題の本質を抱えているのは・・・」
「梅坂です」 戸栗が答えた。
「聞いてくださいよ、まったくこいつというやつは・・・」 そう毒づいて続けるので、梅坂は首をすくめて見せた。
「・・・なるほど、複雑な事情があるようですね」 安芸はそう言って、グラスの液体を飲み干した。
流石に、居住区にもって上がることは思いとどまった。そもそも、高速昇降装置を使う以上、一度会社へ戻らなければならないから、どうしたって発覚してしまう。そこで、少しだけ階層を登った旧3階層の一室に置いてきたのだった。一応、食べてくれた携行食料の残りを全部置いて。
「複雑も何もありませんよ、安芸様。単純にこの馬鹿野郎は、情が湧いたんですよ。災害の対象だってのに。バレたら間違いなくクビですよ、まったく・・・」
と言いつつも、戸栗も最後まで手伝ってくれた。リドカリは思ったよりもずっと軽く、大きな蒲公英(たんぽぽ)の綿毛のようだった。それでも両腕を占領する大きさがあり、角を曲がるたびに、他の駆除員がいないか戸栗が周囲の安全を確認してくれたのだった。
「戸栗」 安芸が話の途切れない戸栗に声をかける。
「はい」 戸栗が返事をする。
「その子を大切にすると吉報有り、と出ています」 安芸は微笑んでそう言った。
「あなたたちのやったことは何か救いや、償いになるのかもしれないわ。これから起こる大きな出来事に対して、何か・・・」 そう言って安芸はタペストリーを編み続けていた。
「・・・償いですか」 梅坂は意外な言葉にぽつりとそう言ったが、
「・・・・・・」
「・・・・・・」 誰も答えなかった。
「・・・あの、安芸様、何か起こるのですか?」
「おい失礼だぞ」 戸栗がたしなめる。暦屋は聞いてもらう場所であり、話をしてもらう場所ではない。それが暦屋を訪れる者のルールだった。それでも、
「あの・・・」 梅坂の不安はそれを振り切ろうとした。
「まだわからないのよ」 安芸はそう窘(たしな)めた。「このタペストリーは、大きすぎるの」
暦屋の占い師たちは、手の赴くままにタペストリーを編んでいく。そこには必然的に未来の出来事が編みあがっていくのだ。規模が大きければ大きなタペストリーになる、と聞いたことがある。実際、博波地区創立を予言したタペストリーは統治機構の建物のロビーにほかのものと並んで掲げられている。
「雨が降っていることだけは分かっているのだけど・・・。いいえ、もうお仕舞いにしましょうね」 安芸は手を止めて、そう言った。それが終わりの合図だった。
「また来て頂戴」
雨が降り始めていた。長い、長い雨が。
あとがき
続きます。
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