「予告状が届いたんだって」
博物館の館長は、その声に顔を上げる。
「川面さん」
「・・・して、その怪盗・時秋(ときとき)のお眼鏡にかなった品というのは、どちらに?」
館長は慌てて、口に手を当てた。
「川面さん! お電話でもおはなしした通り、この件は非常に込み入った事情というものがありまして」
「なんですか! 込み入った事情というのは! そういうものは、持ち込まないでいただきたい!」
「ひぃえぇ!」 館長が川面の大声に思わずのけぞった。
「いいですか、館長。私の仕事はね、あくまでその品物を守ることにあるんですよ。そうでないところは、またそれが仕事の人に頼むのが筋って、そういうものでしょう」
「ええ、その通りですわ!」
「あっ、煤崎さん!」 館長が安堵の声をあげる。
「館長さん、こんなところではなんですので、このうるさい刑事さんを応接室へ案内してお茶とケーキとチョコレートパッフェを3人分、用意してくださりますね」
「いえ、私は要りませんが・・・」 川面が新しく来た女を上から下までじろりと見る。白いシャツの上にジャケット。黒のタイトスカートで、背の高い靴を履いている。見るからに機敏に動けなそうな恰好だな、と川面は心の中で嘆息した。それから、
「先に品物を見させていただきたい。作戦会議はそれからでしょう」
*
地下、ヘッドランプの明かりが揺れていた。
「悪いことをしているという実感はな、ないんだよ」 ちょうど金庫室の真下だった。
「例えば、気付いちまったとするよ。あんたが、いま、今更になって、自分がとんでもないことをしようとしていることに。今ならまだ間に合うかもしれない。やり直せるかもしれない」
基礎部分のコンクリートには小さな穴が開けられ、そこに挿入されたチューブへと特殊な溶剤がポンプで送られている。この建物の構造をこの怪盗に教えることができたのは、博物館の設計に携わった自分を含め、数名にしか出来ない。今回の手口から、真っ先に設計者が疑われるだろう。
「知ってしまったときが、そいつの潮時ってやつなんだろうさ。罪悪感は腕を鈍らせる。鈍った腕じゃあ、いい仕事は出来ない」
怪盗・時秋(ときとき)は、そう言うと、溶剤で柔らかくなったコンクリートをスコップで掻きだしていく。
「それでも、お金が必要なんですよ。ちょっと考えられないくらいの額が。それだけあれば、娘は治るかもしれないって」
「真っ当に生きていくなら、諦めないといけない。それが真っ当な考え方ってやつで、ただ、知っちまった。そのときが、そいつの潮時ってやつで、どうするか、決めないとな」
恐ろしい手際で、博物館の倉庫のコンクリートを掘り当てると、刳り抜いて、時秋は上へと抜けた。
「鷹野さん、あんたはそこで待ってな。案内ごくろーさん」
穴の向こうで、時秋はそう言った。
「さて、と・・・」 時秋は暗視ゴーグルを点灯させて、周囲を見渡した。赤外線が張り巡らされている場所を探すと、それらしい場所がすぐに見つかる・・・見つかったのだが。
「マジで手の形とはね・・・相当趣味が悪い御仁もいるもんだ」
照射されている赤外線をミラーでバイパスして道を丁寧に作っていく。『フレミングの右手』と噂されるその宝は、これまで厳重に保管されてきた。興味が湧いたら欲しくなってしまうのが怪盗・時秋という男の性質だった。その『右手』は思ったよりもずっと硬い感触だった。生きているような肌の質感に似合わず、金属だろうか、磨かれた石だろうか。硬質なそれを風呂敷に包んで、その場を離れた。
*
「・・・で、こちらの警備はもう、それは万全というやつでして」 館長は、倉庫の鋼鉄の扉を開ける。
「いいですか、これからお見せするものは、他言無用でお願いしますね」 と、煤崎は黒塗りのファイルを抱えて言った。
「パフェにいささか時間がかかりすぎではありませんか。奴はそそっかしいやつですから、予告状を出したらすぐにでも行動しないと・・・」 刑事の川面は、苦い顔をしていた。味わった黒珈琲の苦みを舌の上で転がしていた。倉庫の中央、置かれているはずの場所。
「「「・・・ないっ!」」」
それは、なかった。
*
翌日の正午ごろ。こんこん、扉を叩く音がした。
「来客の予定はないんだけどな・・・。あんた、ここ居座ってるといいことないぜ」
「私は、この罪の行く先を見ておかなければならない、そう決めたんです」
「ああ、そう・・・でも、そこはやめときな」
そう言いながら時秋は、銃を構えて扉の横にしゃがんだ。
「はいよ」
扉をゆっくりと少しだけ開けた。
「どうもっ! こんにちはー!!」 間の抜けた明るい女の子の声だった。
「・・・ん?」 少しの疑問。ちらつく照明。そして、時秋は黙った。
「波奈・・・」 鷹野の足が一歩、二歩と少女へと近づく。
「なんだ、手術は終わったのか。もう、歩けるようになったのか? え?」 今にも泣き出しそうな顔。それを時秋は苦々しげに見た。
「鷹野さん」
「時秋さん、娘なんですよ。彼女は、私の娘なんです」
「そっくりなんだろう?」 時秋は、努めて慎重にその言葉を伝えた。
その一言で、鷹野の足は止まった。
「いえ、・・・ええ、そうですね。そうですよね。そんなわけないですよね。それによく見れば別人だ。背も少し高いし、年齢ももう少し上に見えるし・・・」
「お父さん・・・」 その娘は呟いて、
「波奈・・・!」 鷹野は首を振った。正気を失うまいと、髪をかきむしった。
「声まで似てるなんて、残酷すぎやしませんか! ねぇ!」
「だが、残念だが、人間じゃないらしい」 時秋は、足元を指した。
天井からの照明に対して、彼女は影を持たなかった。
「ああ・・・」
「何の用だ?」 時秋は尋ねて、娘は応える。「『フレミングの右手』が動いたので」と。
それから、娘は、右手にサッと触れて見せた。途端に空間がぐにゃりと歪んだ。
*
「・・・で、結局その盗まれたものというのは、なんなのですか」 刑事・川面は、煤崎を問いただしていた。
「国家の安全に関わる機密でして」
「なるほど」
「フレミングの右手の法則とは、時間と空間の関係式を形にしたものです」
そう言って、眼鏡をぐいっとあげると、大盛りのパッフェを頬張った。
「正直言って、よく分かりませんね。それで、盗まれるとどう、国家の危機なんです?」
「(もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ、もぐもぐ)」
「時間、かかりますか?」
「・・・ごくん。そう、時間なんですよ。時間が変化する。それが問題なのです。とにかく、彼から取り返してください。詳しい説明は必要があればそのときにでも」
煤崎は、そう言うと、お金を置いて、去って行った。
「はぁ・・・まあ、仕事ですから」 川面は、コートの襟を一度正した。
*
「また、厄介なものに手を出したな・・・」 古びた時計店のような雰囲気だった。店の主人は単眼鏡で、『右手』を見ていた。
「まあ、そう言わずに。時間があまりないんだ。明日の正午ごろだ。その時間になると、影のない女が現れて、気付けば1日前。『右手』を盗む直前の倉庫の中だ」 時秋はソファに腰掛けて、店主の作業を見ていた。
「あのときも大変だったよなぁ、『キログラム原器』を盗んだときだっけ?」
「よせよ・・・昔の話だ」
「まあそう言わずに。こいつがやっと一人前になった頃の話さ。『キログラム原器』の話になった。こいつは、1キログラムを決めている指標でな。こいつを盗んだらどうなるだろうって。そしたら、こいつ、ひょいって盗んできてよ」
それから世界は大変だったらしい。質量という概念が消失し、あるものは風に飛ばされ、あるものは、落ちた。決死の思いで『キログラム原器』を元の場所に収めてくると、それはすべてなかったように、元に戻ったという。
「へぇ・・・」 不思議な高揚感があった。世界は随分と広かった。鷹野はそれまで真っ当に生きてきた。しかし、世界の裏側はもっとワクワクとドキドキで満ちあふれているのかもしれない、と思った。
「ん~~、これ、一晩、俺に預けろ」 店主はそう言い、時秋は頷いた。
「例の時間までには取りに来る。マスターに迷惑はかけたくないからな」
「おう」
*
そして、何度目かの倉庫。
「・・・あきらめが悪いのね」 娘がそこにいた。
「どうも」 時秋は、そう返した。それから、ふと、あることに思い当たった。
「ここで、引き返せば良いのに」 娘がそう言って、時秋は笑った。
「なるほどな。あんたは確かに、鷹野の娘なんだな、未来から来た・・・」
「・・・なんのことかしら」 娘の声が初めて強ばった。
「悪いけど、お父さんはそっちに行くぜ」 時秋が不敵に笑って、『右手』を掴む。
「駄目!」
娘が叫んだ瞬間、倉庫の扉が勢いよく開く。
「そこにいるのは誰だ!?」
発砲。その銃弾は、時秋の肩の辺りを貫き、『右手』は時秋の入ってきた穴へと、鷹野が待つ穴の中へと落ちていった。
時秋の薄れゆく意識の中で、未来と繋がる音がして、娘の姿は見えなくなっていた。
あとがき
こんにちは!
長くてすみません・・・同タイトル、かけました!
刑事さん、もうちょっと活躍させてやりたかったんですが・・・。
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