私と彼女の話 (1)

  • 超短編 4,087文字
  • シリーズ
  • 2018年05月06日 16時台

  • 著者: 1: 鈴白 凪
  •  扉を開け、重たい一歩を踏み出す。
     一歩外に出た途端、予想以上に冷たい風が通り抜け、私は首を縮めた。いつの間にこんなに寒くなったんだろう。少し前まで、うだるような暑さに悩まされていたというのに。もう少し温かい服装にした方が良かったかな、と少し後悔する。日によって気温がコロコロ変わる季節の変わり目は、いつもこうやって服装に悩まされる。しかし、着替えに戻るほどの余裕はない。そもそも今着ている服だって、散々悩んだ末に決めたものなのだ。
     他人の服装なんて、案外いちいち気にしたりしないもの。それこそ、好きな人でもない限り。
     そんなこと分かってはいるけれど、それでも今日は少しでも見栄えの良い恰好がしたかった。下手に今から急いで着替えたりなんかしたら、変てこな格好になってしまいかねない。だったら、少しくらい肌寒い方がまだマシだった。
     自転車に乗ろうとしたところで、鍵を持ってきていないことに気づく。慌てて階段を登り直し、閉めたばかりの扉を再び開けると、玄関の横に提げてある小さな鍵を手に取ろうとする。しかし、慌てているせいか、鍵は私の手をすり抜けて、玄関に並んでいた靴の中に落ちてしまった。
     ああ、もう。この時間のない時に。
     私は慌てて鍵が落ちたあたりにあった靴をひっくり返す。スニーカーとブーツを三つほどひっくり返したところで、ようやく鍵を見つけた。
     腕時計を見ると、最初に家を出てからもう十分近く経ってしまっていた。玄関はひっくり返った靴が散乱しているひどい有様だが、そんなものに構っている暇はない。
     私は急いで家を飛び出し、自転車に飛び乗って重たいペダルを思いっきり踏み込む。自転車を全力で漕げば、時間には間に合うはずだ。あの長い坂を全力で駆け上がるのは相当疲れるが、背に腹は変えられない。何より時間に遅れてしまうこと、それだけは避けたかった。


     息を切らせながら目的地にたどり着いた私は、その中に人の気配がないことを確認し、ほっと息をついた。予定の時間は少し過ぎているが、どうやら間に合ったようだ。
     軽音部という札の書かれた扉を開くと、石造りの建物特有のほこりっぽい臭いと、ひんやりとした空気が私を出迎える。額に汗の浮かんでいる今としては、この冷え切った空気が心地良かった。部室の左手にはギターとベースのケースがずらりと並んでおり、奥にはドラムセットが鎮座している。それら軽音を代表する楽器たちの前をすり抜け、私はドラムセットの奥に立てかけてある黒い無骨なケースに手をかけた。
     人が入っていてもおかしくないくらいの大きさの、棺桶のようなハードケースが二つ、並んでいる。そのうちの一つを、倒れないように支えながらゆっくりと傾け、床に寝かせる。ケースだけで数キロはあるだろうそれは、横に倒すだけで一苦労だった。
     蓋を開くと、姿を表したのは白黒の鍵盤。バンドでよく使われるプラスチックのキーボードとは違い、電子ピアノと同じような木製のものだ。それだけに、普通のキーボードよりずっと重い。華奢な女の子では、一人で持ち上げるのも難しいだろう。私はそれを気合と共に持ち上げ、専用の四つ足スタンドに運ぶ。
     比較的小柄だとか華奢だとか言われることが多い私だが、実は腕力には結構自信がある。特にスポーツや筋トレをしていた覚えはないが、吹奏楽部だった中高生時代に散々重たい楽器を運ばされていたせいかもしれない、と勝手に思っている。
     苦労してスタンドまで運んだキーボードだが、これだけではまだ準備は整っていない。ギターやベースと同じように、アンプにつながないと音が出ないのだ。毎度準備に手間がかかるな、とは思うものの、私はこの準備がそんなに嫌いではなかった。
     棺桶ケースの中から、アンプに繋ぐためのシールドと呼ばれるコードを取り出して繋いでいると、外からコツコツと焦ったようなヒールの音が聞こえてきた。この石造りの建物では、遠くからの足音もかなり響く。私は思わずアンプの後ろに立てかけてある鏡を見て、乱れた髪を整える。さっきまで額に浮かんでいた汗も、この数分の間に大分おさまっており、今では少し肌寒いくらいだった。やっぱり服装間違えたかな、と思っていたところで、
    「はあっ、はあ。遅れちゃってごめんねーっ。」
     と、息を切らせた彼女が入ってきた。あの坂を走って登ってきたのだろう。息が切れるのも当然だ。少し前まで同じように息を切らしていた私は、アンプの電源をつけながら澄ました顔で答える。
    「まあ、いつものことでしょ。」
    「うう、ほんと、ごめんね?」
     本気で申し訳なさそうに頭を垂れる彼女。
    「ん、怒ってないよ。それより」
     そこで一旦言葉を区切ると、私は彼女を見て、微笑んだ。
    「おはよ、ナナ。寒いね。」
    「おはよー、ハル。寒いねー。私、ちょっと服装間違えちゃった。」
    「ナナもか。実は、私も。」
     顔を合わせて、二人して笑いあう。
     今日のナナの服装は、すっきりとした黒いスキニーに、緩いラインのTシャツの上に、白くてふわふわしたニットカーディガンを羽織っている。彼女本人のふわふわとした雰囲気に反して、服装はスカートよりもパンツスタイルの方が多い。でも、そんなところがちょっとだけ大人っぽくて、すごく似合っていると思う。口には出さないけれど。
     彼女が鞄を近くのテーブルに置いている間に、私はもう一つの棺桶から鍵盤を取り出し、彼女の前のスタンドに設置してあげた。
    「わ、ありがとね、ハル。」
     はにかみながら彼女が言う。このくらいなら、お安い御用だ。こういう時だけは、自分の体力に感謝する。どういたしまして、と答えようとして、彼女が鞄から取り出そうとしてるものにぎょっとした。
    「うわ、なにそれ。」
     可愛らしい彼女の鞄から出てきたのは、やけに長く継ぎ合わされた紙束だった。ナナがきょとんとした顔でこちらを見る。
    「これね、新しい曲の譜面。この曲、繰り返しが全然ないんだもん。全部きっちり譜面に起こしてたら、こんなことになっちゃったの。」
    「・・・なるほど。」
     言われてみれば、今日合わせる新曲は展開が結構複雑だった気がする。ピアノの譜面は、曲中に楽譜をめくらなくてもいいように、横に並べてつなぎ合わせることが多い。あの長さの曲をきっちり譜面にしたら、確かにこれくらいの長さになってしまうかもしれない。
    「それにしても・・・長いね。譜面台、一個で足りる?」
     長い譜面を広げようとして苦戦している彼女に私は問いかける。
    「あ、二個欲しいかも。」
    「だよね。じゃあ私の、あげる。」
     私の前に置いてあった譜面台をナナの前に移動する。ナナはありがと、と言うと、二つの譜面台の上に屏風のような長い譜面を置いた。
     代わりに私の鍵盤の前から譜面台はなくなったが、別に問題はない。私は楽譜を見ながら弾けないのだ。だから、いつも曲を頭に叩き込んでから練習に臨む。ナナは、楽譜を覚えられるなんてすごいと言ってくれるけど、正直私は、ナナのように楽譜を見てさらっと弾ける人の方がずっと羨ましかった。
     それだけじゃない。口には出さないけれど、彼女は私にはないものをたくさん持っている。まっすぐな素直さとか、人を惹きつける笑顔とか。字の綺麗さとか、絵の可愛さとか。それが羨ましいやら、誇らしいやら。その辺のごちゃごちゃした感情を、全部まとめて私は「ずるい」と呼んでいる。
    「それじゃあ、やりますかー?」
    「ん、やりますか。」
     彼女の準備が整ったようだ。私も鍵盤に指を添える。それを確認した彼女が、鍵盤をゆっくりと弾き始めた。
     高音を基調とした、ゆったりとした旋律。左手はアルペジオで、右手は単音。シンプルな構成から曲は始まる。メロディの盛り上がりと共に、徐々にベースラインが低音に下がっていき、メロディラインにも和音が重なり始める。少しずつ音の重厚感が増していくが、ここからが本番だ。リタルダンドがかかり、テンポがゆっくりになったところで、彼女の目がこちらを向いた。
     それまで彼女の演奏に聞き入っていた私は、そこで初めて指に力を入れる。彼女と私の目が合い、心の中で「せーの」という声が聞こえた。それに合わせて、彼女が作った音の流れに、私の音が重なる。
     そこで響いたのは、突然の不協和音。
    「あ、ごめん。思いっきり音間違えた。」
     その素っ頓狂な音に、思わず二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
    「もー。せっかくソロ上手に弾けたのにー。」
     口を尖らせて言う彼女に、私は適当に取り繕う。
    「あー、ほら。もっかいやればいっぱい弾けるし、練習になるじゃん。」
    「最後のフレーズだけ弾くから、次はちゃんと入ってねー。」
     私の言い分を無視し、彼女がリタルダンドがかかる前のフレーズから弾き直す。さすがに二回も間違えたら本気で怒られるよな、と出だしの和音を頭の中で確認して、再び彼女と目を合わせる。その目が若干笑っていて、「今度こそ間違えないでよね?」と言っているように見えた。「任せなさい」と同じように目で返して、私は思いっきり鍵盤を叩く。
     今度こそ、完璧な和音が響いた。
     一人では到底出せない重厚な音色。和音から始まり、互いのアルペジオを掛け合いながら、二人の間のテンポが合っていく。そのままメインの旋律へと雪崩れ込み、オクターブをずらしたユニゾンで二つの音はぴったりと重なる。私の低音と、彼女の高音が混ざり合う。
     譜面だけじゃない、私たちの弾き方は、全くの間逆だ。アタックが強くてはっきりとした私の音と、丸くて穏やかな彼女の音。例えば部室で私かナナが弾いていたら、中に入らずともどちらが弾いてるか分かるくらい、私たちの奏でる音は違う。そんなちぐはぐな連弾のはずなのに、どうしてこんなにも気持ちが良いんだろうか。つい口元が緩んでしまう。
     思わずナナの方を見ると、ちょうどナナもこちらを見上げたところで、目が合ってしまった。多分、考えてることは同じだ。ナナの緩んだ口元がそれを物語っている。曲が後半に近づくにつれて、だんだん聞こえてくるのが私の音なのか、彼女の音なのか、分からなくなる。
     まるで二人が一体になったみたいな感覚。これが、たまらなくクセになっていた。

    続く

    【投稿者: 1: 鈴白 凪】

    あとがき

    お久しぶりです。
    シリーズというか、長くなってしまったので5話に分割させて投稿させていただきます。
    サイトの趣旨に合わず長めのお話ですみませんが、ぜひ最後まで読んでいただけると嬉しいです。

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    コメント一覧 

    1. 1.

      20: なかまくら

      最初、男女の話なのかな? と思いましたが、違う様相。
      演奏は正反対だけど、どこか似ている2人、という感じですね。このあと、どう展開していくのか楽しみです。