世界は、美しいほどに残酷だ。
新しい季節の香りを運ぶ風は暖かい。春の日差しのように柔らかく微笑む彼女の姿がふと脳裏に蘇る。殆ど白のように見える薄桃色の花びらを拾い上げ、そうして上を見上げれば、寄り集まって桃色となった桜の大木が僕を優しく包み込んでくれるかの如くそこにいた。生前、彼女がよく呟いていた台詞が頭の中で再生される。まるで、ほんの一瞬、耳元に彼女が生き返ったかのように思えて涙が溢れた。
「いつかもう一度…君と桜を見に行きたいなぁ」
昔、まだ彼女の病気を僕が知る前のこと。彼女と、春に旅行に出かけたことがあった。そこで人懐っこい彼女がいつの間にか仲良くなっていた地元の人が、桜が綺麗に見える穴場に連れて行ってくれた。世界は美しいほどに残酷で、儚いものほどに美しい。満開の桜に目を奪われたまま、ぽつり、ぽつりと彼女は自分の病気についてを漏らし始めた。僕が驚いて彼女を見つめても、彼女は桜を見つめたまま、まるで絵空事のように話し続ける。少し前に病気が発覚し、今はまだそんなに酷くはないのだが、悪化していけばやがて死に至るような病気だということ、この旅行から帰ったら入院しなくてはならないということ。そして、入院前最後の思い出に、昔から大好きだった桜をどうしても僕と一緒に見たかったのだということ。
「桜って、ほんと少しの間しか見られないけど、だからこそこんなに綺麗なんだろうねぇ…」
ありきたりかな、なんて笑う彼女の視線はやはり桜の木に向いている。
「私、君と、今、一緒に居られて幸せだよ。大好きな人と、大好きな桜をのんびり眺めて居られる"今日"が私の人生の中に1日でもあって、それだけで、私は幸せ」
僕と目を合わせないままにそんな嘘を吐いた彼女は、次いでありがとね、と言って微笑む。僕は何も言えなかった。何も言えずに、ただ隣に立って居た。いつの間にか彼女は泣いていた。怖い、と彼女は言った。そのは初めて彼女が漏らした弱音であり、きっと、その日初めて彼女が漏らした本音だったのだろう。大丈夫、と僕は言った。言って、でも、何が大丈夫なのかわからなかった。わからなかったから、大丈夫、と願い続けた。
ひとしきり泣いて、やがてその涙が止んだ時、彼女は少し大人になったようだった。僕達は暫くそこにいた。そこで桜が舞い散るのをただ眺めていた。
やがて赤く輝く夕日に照らされて、彼女が笑う。
「いつかもう一度、ここに桜を見に来よう」
それ以来、桜を見たいは彼女の口癖になった。そうしてこの冬、彼女の命は病室のベッドの上で静かに消えた。
「桜」
白い天井を見つめて、彼女が小さく呟いた。
「もう一度見に行きたかったなぁ…。でもね、私幸せだったよ。きっとあの日、やっぱり私は、すでに幸せになってたんだね」
彼女の最期の言葉だった。世界はやっぱり美しいほどに残酷で、儚いものほどに美しいようだ。この時の彼女の笑顔ほど美しいものを僕は今までに見たことがない。そしてこの時彼女の笑顔に僕が胸を抉られるような痛みを感じていたことをきっと彼女は知らないのだろう。
彼女がいない、長い長い冬が明けた、春。僕はあの日と同じ桜の下にいる。
世界は今日も、残酷なまでに美しい。
あとがき
初めまして、初投稿です茜と申します!ほとんど一発書きのようなものなので下調べなどは何もしてないしまだまだ拙い文章ではありますが楽しんでいただけたら幸いです…。これからここで短編磨いていけたらと思います、感想、アドバイスなどいただけたら嬉しいです!
コメント一覧
彼女との最後が丁寧に描かれていますね。
これから、"僕"はどう生きていくのかなぁ、と思いました。
桜の花の短さと、彼女の命の短さ、桜の美しさ、彼女の美しさ(おそらく美しいのでしょう)が掛けられている。
終わりも、彼女と行った桜の木の下に訪れるとこで終わっている。映画のエンディングのように綺麗。
印象に残ったのは、あの日に幸せになってたんだね、との彼女の台詞でした。本当は何度も花見に行きたいが、それが叶わないので、自分を納得させるために、そう自己暗示をかけた。もしくは主人公を困らせたり、悲しませたりしないための発言なのか。
全体として、真っ直ぐで、良い作品に思えました。