昔々、その時代を示す言葉がないほど大昔のこと。
神は、空と海と陸、その他のすべてを作り、その出来を確かめると、最後に九十九の名前を作り、九十九の人間に与えた。
その他の人は誰一人として名前を持たなかったが、誰もが知っていた。
神の作った名前を。
それから時代が下って、神が姿を隠したころのこと。
とある小さな村に旅人がやってきた。
長が「名前はあるか」と聞くと、旅人はアイユと名乗った。
人々は額を寄せ合い、口々に話し合った。
アイユを知っているか? アイユは何者だ?
知っている。アイユは天才だ。西の地で医師をしていた。
知っている。アイユは智者だ。数え切れないほどの病人を救った。
村人はアイユを大事な客人として迎え入れ、丁重にもてなした。
アイユが偽物ではないことはわかっていた。
他の者がその名を騙ろうとすると、必ず舌がもつれて喋れなくなるのだ。
それは神から、アイユその人だけに与えられた名前だった。
誰もがその名を知っていた。名のある人は不死だった。
アイユが村を去ってからしばらく後に、ある少年が重い病にかかった。
できる限りの手当を施したが、どうにもよくならない。
彼の命はみるみるやせ細っていった。
少年の兄が「ほしいものはあるか」と聞くと、少年は粗末な寝台に寝そべったまま、「名前がほしい」と言った。
「それは無理だ」
兄が諭そうとすると、少年はせき込みながらつぶやいた。
「僕は怖いんだ。死んだらみんな、僕を忘れてしまう」
「そんなことはない」
「今僕は『病にかかった子』と呼ばれてる。
死ねば『不運な子』になって、儀式が終わるまでは覚えていてもらえる。
だけど少しすれば『去年死んだ子』になって『昔死んだ子』になって
他の誰とも区別できなくなって忘れられてしまう。
それが何より怖いんだ」
兄は、少年の手を握ってやった。
「それは普通のことだ。
お前だって、昔遊んだ、でも今はいない子たち、全員を思い出すことはできないだろう。
人間はみんな忘れる。忘れてしまう。それだって、神様からの贈り物なんだ」
「僕は忘れられたくない。証がほしい、僕がここに生きていた、その証が」
兄はうつむいて、ため息をついた。
それから数日後、村に旅人がやってきた。
ぼろきれをまとい体中に傷をこさえた旅人に、長が訪ねた。
「名前はあるか」
旅人はくぐもった声で答えた。意に反して、口が動いてしまうのだ。
「わたしはカルノー」
村人たちは後ずさった。
カルノーを知っているか? 話し合うまでもない。
知っている。カルノーは罪人だ。東の海で人を殺した。
知っている。カルノーは咎人だ。いったいどれだけ血を流したことだろう。
村人は石を投げて、カルノーを村から追い払った。
カルノーが偽名を使うことはできなかった。
名前を聞かれると、答えずにはいられないのだ。
それは神から、カルノーだけに与えられた名前だった。
その日、病にかかった少年は、家の裏庭で人が倒れているのを見つけた。
それは年端もいかぬ少女だった。
長い旅をしてきたらしい、服はボロボロで、体中打撲だらけ。
家には誰もいない。何か騒ぎがあったとかで、皆、出払ってしまっていた。
少年は力を振り絞って寝床から抜け出すと、少女を台所に招いた。
テーブルにつかせて水と食物を与えると、少女は飢えた獣のようにむさぼった。
それからはっと顔を上げて「わたしは、お礼なんてできない」と言う。
少年はぎこちなく笑顔を作って見せた。
「いいんだ。僕が食べても仕方ないから」
「どこか悪いの」
「一カ月は持たないんだって、言われた」
少女が息をのむ。
「ごめんなさい。寝てなくちゃいけないんでしょう……」
「いいんだって」
「わたしに何か、できればいいのに」
それなら、と、少年は言った。
「僕のことを覚えていてほしいんだ」
「あなたのことを?」
「死ぬのは仕方ない。せめて、誰かに覚えていてほしいんだ」
「家族はいるんでしょう。みんな、忘れたりなんかしない」
少年は首を振った。
「母は何人も子を産んだけど、生き残りは三人だけ。
死んだ子は全員『昔死んだ子』って呼ばれてて、誰が誰だったか、誰も覚えてない。
名無しだから、覚えようがないんだ」
少女は力のない目で、少年の話を聞いている。
「僕にも名前があったらよかった。
僕の、死んだ兄弟にもあればよかった。
そしたら忘れずに済んだのに。忘れられずに済むのに」
「本当に、本当にそう思う?」
「本気だよ」
少女は微笑んだ。それは引きつった笑いだった。
「それならわたしに聞いて。お前の名は何か、と」
「君に、名前があるの?」
少女は答えて言った。
「わたしはカルノー」
少年は椅子を蹴倒して立ち上がった。
その名はもちろん知っていた。神に命を授かったときから、知っていた。
罪人カルノー。
少年は死を覚悟した。だけど、カルノーは少年を殺したりはしなかった。
彼女は両手で顔を覆って泣き始めた。
「名前なんて、欲しくなかった」
もともとその名は、少女の叔父のものだった。
彼は名前通り強欲な人間で、畑の分割を巡って親戚と諍い、口論の末に殺された。
『名前を持つ者』が不死なのではない。『名前』だけが不死なのだ。
持つ者が死ぬと、名前は元の身体を離れ、他の人間に取り付く。
そうやって生きながらえていくのが、名前というものなのだ。
その名前は葬儀の途中に“降って”来て、少女に取り付いた。
彼女はカルノーになった。
「それから誰もが、ありとあらゆる人間が、あったこともないはずの人々が、
わたしを恐れ、軽蔑し、遠ざかるようになった。
罪人の名前を持つ者が、優しい、無害な、親しみやすい人間はずがない。
罪人の名前を持つ者は、残虐で、害悪で、危険なものだ。
名前を持つ者は、名前通りの人間のはずだ。
カルノーの名前なら誰もが知っている。罪状だってみんな知っている。
これでも名前がほしいの? 永遠にみんなに覚えられ、迫害されるとしても。
それでも名前がほしいというの?」
少女は真っ赤になった目で、少年を睨んだ。
少年はそっと、壁から離れて、少女に近づき、彼女の手を取った。
「その名をよこせ」
病に冒された少年は言った。
「その名前を、僕の骸ごと、地中深くに埋めてしまおう。
その名前は今日から、僕のもの、僕だけのものだ」
村の入り口に、二人が並んで立った。
ぼろきれをまとった少女と、死にゆく定めの少年が。
「我が名を聞け!」武器を構えた村人たちに向かって、少年が叫んだ。
「馬鹿な」少年の兄が叫び返す。「お前に名前なんてないはずだ」
名無しが偽名を使うことはできない。必ず舌がもつれてしまう。
「聞け! 私の名前を!」
少年が繰り返すのを聞いて、村の長が口を開いた。
「お前は名前を持っているのか?」
少年は吠えるように叫んだ。
「私が、カルノーだ!」
少女がくずおれた。
少女は、名前のなくなった少女は、顔を覆って泣いた。
もはや何者でもない。
会ったことのない人に恐れられることも、石を投げられることもない。
カルノーは、カルノーと呼ばれることになった少年は、村人たちの前で膝をつくと、深く頭を下げた。
「私は、私の罪全てを償う。この名前に紐づけられたすべての罪を。
私はこの名前を、体と一緒に埋めてしまうつもりだ」
彼は旅に出た。
困っているものがいれば手を貸してやり、悲しむものに寄り添って共に泣いた。
彼は医師たちの予想を超えて長く生き、その一生を、全て人のために費やした。
やがて病が彼の息の根を止めたとき、もはや誰一人として、罪人カルノーのことを覚えていなかった。
後にはただ、名前のない少年の、名前のない物語だけが残された。
あとがき
昔友達と「名前のない世界ってどんなのだろうね」と話し合ったことがあって
その時考えたことを物語にしてみました。
お楽しみいただければ幸いです!
コメント一覧
名ではなく、その人を観ることの難しさを改めて感じたような気がします。
寓話のような、優しさがとても素敵ですね。
>「名前のない世界ってどんなのだろうね」
から、こうなるとは・・・すごいの一言です。
世界観が出ていますね〜
僕なら、名前を得ても罪人なんて嫌だ。真っ平ごめんだ。
この少年は、罪人の名前で迫害を受けている少女を救うために、身代わりになったのですね。
偉い!
少年は死んで、名前が無くなった。罪人名もろとも葬り去ったのかな?
少年の目論見としては、死んでも、皆に名前を覚えてもらうことだったはず。
その目的は達成できなかったのかな?
しかし、最後に名のない少年と物語は残された、とあるので後世には美談として残ったのかな?
それならば、仮に名は覚えられなくとも、ハッピーエンドだったのかも!
ちなみに、僕は人の名前と顔を覚えるのが大の苦手ですw
自分の名前を選ばないから微妙にも思います。
とはいえ、ゴダイゴの唄で「ビューティフルネーム」を思い出しました。
感想ありがとうございます!
なかまくらさん>社会で暮らしていると、どうしても名前とか肩書とか、わかりやすいもので判断してしまうなーと思う今日この頃です。
けにおさん>最初の目論見は覚えてもらうことだったんですが、少女と会って「罪人カルノーの名前を忘れてもらう」ことが目的になった感じですね。名前と顔、覚えられないの、わかります。1回会っただけじゃ絶対覚えられない。
鉄工所さん>微妙でしたかー。次頑張ります。
ヒヒヒさん> あっ!名前と言う慣習が微妙って事です。
作品は、とてもビューティフルですよー
鉄工所さん>そういうことでしたか。親と名前は選べないですもんね。ありがとうございます!