強制された歓喜

  • 超短編 2,367文字
  • 日常
  • 2017年05月06日 11時台

  • 著者: 爪楊枝
  • 「そうじゃない!」

    目論見通りショスタコーヴィチは我慢ならなくなったようだ。
    「では、ご意見をお聞かせ下さい」
    「わかりました。ムラヴィンスキーさん」初めてこちらを向いた、強い瞳の光を見て、この演奏は上手くいきそうだ。そんな手ごたえを感じた。

     ショスタコーヴィチは素晴らしい才能を持った作曲家だと、常々思っていた。彼の惜しいところは、このソ連に生まれてしまったことだろう。前衛的な作風はスターリンの意に沿わず、オペラの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は上演すら禁じられてしまった。「音楽の代わりに荒唐無稽」というプラウダ紙の批評はあまりにも横暴なものだ。音楽的な感性を大衆におもねる様な作風に変えなければ、ソ連政府から潰されてしまうであろうことは目に見えていた。それが、一音楽家として残念でならなかったのだ。
     その彼の名誉挽回を期する作品を初演できるのは光栄なことだった。何としても成功に導きたい。その初顔合わせが今日のリハーサルだったわけだが、彼は仏頂面のまま黙り込んでいた。曲についての議論を楽しみにしていたこともあって、当初は困惑していた。しかし、少し考えてその理由はわかった様な気がする。彼の立場と私の立場の違いによるものだろう。私もソ連政府に対しては批判的な立ち位置だが、これまでの実績によって手が出せない場所にいる。対する彼は後ろ盾がないために、理不尽な批判の矢面に立たされているのだ。不機嫌になるのも最もかもしれない。この曲の成功を誰よりも願っているはずなのに素直になれない彼の立場を少し不憫に思った。
     彼の本音を引き出すために、一計を案じることにした。それは曲のテンポを滅茶苦茶に演奏することだった。自分の作品を無下に扱われれば、口を出さざるを得ないだろうと考えたからだ。そして、それは見事に当たった。

    「私はこの作品をとても評価している。必ず成功に導きたい。ともに協力しましょう」

     私の真剣さが伝わったのか、ショスタコーヴィチは積極的に意見を述べてくれるようになった。リハーサルは有意義に進み、確実に曲の完成度は上がり、その評判を聞いて演奏会に対する期待は日増しに高まっていた。


     1937年11月21日、革命20周年という記念すべき年を祝う演奏会として、超満員の観衆はショスタコーヴィチの交響曲第五番に熱い期待を投げかけている。その熱気はホールの様子からも伝わってくるほどだ。当然ソ連政府の関係者も聴きにきているだろう。すこし苦笑いをした。彼らがショスタコーヴィチの真意を読みとれるのか疑問だったからだ。表情を引き締めると舞台上へ向かった。

     静かな弦楽器のカノンは、張り詰めた空気を暗く響かせる。金管楽器も次第にその中に共鳴していき、トランペットとともに頂点へと辿り着く。ピアノの不気味さによって展開された主題は前向きなエネルギーを増幅しながら第一楽章のクライマックスへと至る。静まり返ったなか響き渡るフルートとホルンがかすかな希望を示し、消えていく。
     第二楽章は力強い弦の勢いに乗って、管楽器が存在感を主張していく。皮肉めいたスケルツォはゆったりとしたテンポでスケールの大きさを失わせていない。ユーモラスな曲調を維持したまま爽やかに終わる。
     第三楽章は一転して暗く、悲哀に満ちた響きが全体を包む。フルートの音色はどこまでも内省的で、沈み込む様な行く先を暗示するかのようだ。続く木管たちの表わす色調は回顧的で、内に更なる悲しみを詰め込んでいく。そして、堪え切れなくなったそれらは結実して決壊し、慟哭する。次第に落ち着いていき消える。
     そして終楽章。金管の爆発的な咆哮で、突撃するかのようにオーケストラが突き進む。質量の伴った疾走感が全体を貫きながらも、それは一つの方向性へ向かってまとまっていく。一度落ち着いた曲調で奏でられた音は歩調を合わせながら、静かに響く。ホルンのロングトーンで終わりを告げた音は、スネアの行進に合わせて再び歩き出し、美しいクライマックスへと上昇していく。頂上でトランペットは歓喜の雄叫びを上げ、演奏は終わった。

     最後の一音が消えた後、会場は歓声に包まれた。「体制への反逆者」と罵られたショスタコーヴィチは一夜にして確固たる名声を得たのである。
    「応えた。立派に応えた」興奮した観客たちはスタンディングオベーションで賛意を表し、みなでそのフレーズを繰り返してショスタコーヴィチを称えた。彼は下唇を噛み締めながら舞台上へ上がった。その表情は歓喜か失望か判断しかねるものだった。彼のその表情が体制批判と取られることを恐れ、彼はスタッフに促されるままに裏口から会場を後にした。
     しかし、それは取り越し苦労だった。政府は交響曲第五番を絶賛した。体制派の作家アレクセイ・トルストイはその総意として、ショスタコーヴィチを称賛する論文を書いた。彼の名誉は挽回された。

     では、彼はソ連政府に迎合し、その芸術性を歪めてしまったのだろうか。いや違うと私は確信している。第四楽章(終楽章)の歓喜は、決して彼の本心を表わしていない。むしろ、彼の曲の中でも最も現体制を皮肉ったものだろう。管楽器が無機質な歓喜の歌声を上げる中、一定のテンポで白々しく鳴り続ける弦楽器の響きは、彼の表現したいものを端的に表わしているように思えた。それは「強制された歓喜」である。進退きわまった彼は本心を内に秘めた交響曲第五番で窮地を脱し、名誉を得た。政府はこの曲を革命成功の象徴にするつもりのようだ。それはあまりにも皮肉が効き過ぎていて、実に痛快だ。

     後日聞いた話だが、ショスタコーヴィチは初演直後に指揮者のボリス・ハネキンに、
    「フィナーレを長調のフォルテシモにしたからよかった。もし、短調のピアニッシモだったらどうなっていたか。考えただけでも面白いね」とコメントしたという。

    【投稿者: 爪楊枝】

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    コメント一覧 

    1. 1.

      爪楊枝

      ショスタコーヴィチの交響曲第5番の初演のエピソードを小説にしてみました。
      ムラヴィンスキーの考えたことは全て想像で補ったものです。
      音楽の中に潜む物語を楽しんでいただければ幸いです。
      (一応旧作なのですが、投稿してすぐにサイトごと消えてしまったので、加筆修正の上、新作扱いで投稿します。)


    2. 2.

      参謀

       ソ連に翻弄されたショスタコーヴィチ。
       コンサートの所は画面を見てるようでした。
       そしてショスタコーヴィチの皮肉りを話す。ムラヴィンスキー。
       少しニヤとしたました。


    3. 3.

      1: 3: ヒヒヒ

      音楽は人の営みであり、その背後には物語がある。
      それぞれの音には意図があり、作曲者と演奏者の思惑が込められている。
      他方、聴衆も人間であって、彼らもまた、様々な動機をもって音楽を聴く。
      それらが折り重なってまた様々なものが生まれていく。
      音楽の複雑さ、豊饒さがよく見える作品だと思いました。


    4. 4.

      1: 9: けにお21

      むうう、完璧に音楽小説だ!

      疎い僕には分かりはしないが、小説もそうだけど、その時代に沿わない、特に政治的に。

      冷遇を受けるもので、余計に反発したり、皮肉。

      得てして芸術には、背景に社会的な抑圧や反発などが潜んでいる。

      その点、今の日本は政治的・社会的な抑圧がなく、基本自由。

      つまり、反抗する必要がないので、芸術も生まれにくいの環境なのかも知れない。

      音楽的な部分は理解しきれていないが、そのように感じました。


    5. 5.

      20: なかまくら

      谷川俊太郎ではないですが、氏の詩の一節、”声にならない叫びとなって”
      という言葉がしっくりきます。それが伝わらないことで、感じる孤独はまた苦しいのかもしれませんが。


    6. 6.

      3: 茶屋

      最初になぜ彼は怒っているのかというところから始まりそこから終盤にかけて理解がどんどん深まっていくのは、読んでいてつい引き込まれてしまいました。体制であったりその時代の流れが音楽に絡んでいくのは面白いですね。
      絵であったり陶芸であったり演舞であったり芸術的なものはその時の世相や人の思いが組み込まれているから生で見たり聞いたりすることに意味が出てくるのかもしれないと思いました。