夢老い人

  • 超短編 878文字
  • 同タイトル
  • 2017年04月21日 11時台

  • 著者: 爪楊枝
  • ガラス工房に展示された作品の数々を見るにつけ、その形状の玄妙さに心躍らせてしまう。

    いわゆる工業製品のグラスと違って、整っていないそのカタチがなんだか温かく感じる。たぶん、そのファジーな感触が生きているように思えるからだろう。
    「いらっしゃいませ。いつも来てくれてありがとうございます。どうですか?そのグラスが、三代目の自慢の一品なんですよ」
    なんて、その店主は言わなかった。
    ただ、カウンターに座って、黙したまま、中途の作品を磨き上げている。ゴツゴツとした荒削りの、まるで産声すらあげられない赤ん坊のような作品が、その手によって光を放ち始める。たぶん、それは序曲のような、自らを形容するかのような声なのだろう。店主が、その節くれだった手で、磨き上がった作品を眺める姿が眩しかった。白髪混じりで、ひたいの広い赤ら顔が、少し微笑みを浮かべ、瓶底眼鏡の奥で、柔らかい瞳が輝いていた。

    その日はいつもと違っていた。店主はぼんやりと椅子に座り込み、何も見えていないようだった。右手と左手を摺り合わせながら、どこか遠く彼方に魅入られているようだった。ただひたすらに、歩き続けた登山家が、限界を覚えて座り込んでしまったように思えた。それは寂しい気分になる光景だった。何かの終わりは唐突に訪れるものなのかもしれない。初めて、陳列された商品を手に取った。眺めるだけで満足だったけれど、何か1つでも、と欲する気持ちが抑えられなかった。
    手に取ったグラスは、エメラルドブルーの爽やかな光を放っていた。透き通ったグラスは、世界の色を密やかに染めていた。その先に見える世界は、静かで、穏やかで、少しさみしいものだった。カウンターで店主に差し出すと、
    「3240円です」と言った。月並みで、面白みのない言葉だ。店主の声を聞いたのはそれが最初で最期だった。

    それからあの店には行っていない。どうやら、今は美容院になってしまったらしい。グラスはたまに使っている。その爽やかな色合いに、ビールを注ぐと、苦味以外に、少しだけしょっぱい気がする。ただ、それが無性に懐かしくて、ついつい深酒してしまうのだった。

    【投稿者: 爪楊枝】

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    コメント一覧 

    1. 1.

      爪楊枝

      新サイト初の同タイトルの名誉は頂きました!笑
      夢追い人はいつか夢老い人になるのかなぁと。


    2. 2.

      1: 9: けにお21

      味わい深い作品。ムードと言うか、昭和のような空気感が出ている。

      爪さんの作品には、いつも狙いがある。


    3. 3.

      ミチャ寺

      お、大人なムードだ…。と読みふけりました。
      店主は夢の道で歩みを止めてしまったのですね。歩かれなくなった瞬間、夢は老いを迎える。
      そう捉えました。


    4. 4.

      20: なかまくら

      何かひとつでも、と求めてしまう姿にリアリティがありますね。
      そのときを永遠に閉じ込めたいというかなんというか。
      惚れていたんですね。


    5. 5.

      キノ

      いい同タイトルのハジマリですね。ファジーって単語がいい。ファジーってなんだろう。調べます。


    6. 6.

      キノ

      ファジー。境界が不明確であること。あいまいであること。なるほど。


    7. 7.

      3: 茶屋

      あぁ終わる前にその一瞬に間に合ってよかったと思います。
      本人が忘れていても残るものはあると思うので


    8. 8.

      爪楊枝

      >>けにおさん
      この作品は雰囲気に気を遣って書きましたので、そう行っていただけると嬉しいです。

      >>ミチャ寺さん
      夢を追い続ける道のりから、多くの人はやがてドロップアウトしていきます。
      その一瞬を感じ取っていただけたなら幸いです。

      >>なかまくらさん
      そうなんです。惚れていたんです。
      たとえ、終わっていくのだとしても、その瞬間は永遠なのだと思います。

      >>キノさん
      素敵な作品がたくさん生まれたいい同タイトルになって良かったです!

      >>茶屋さん
      間に合って良かったですね。
      その残滓が次の夢や希望になるかもしれないですから。