真っ暗な舞台の上にスポットライトが当たり、上手の方から女性が出てきて言いました。
「私たちに、名前は必要ないのです」
彼女は下手に消えました。そしてお話が始まります。名前のないお話が。
昔々あるところに『ある人』と『ある人の妻』が住んでいました。
『ある人』はある山へ芝刈りに、
『ある人の妻』はある川へ洗濯をしにでかけました。
『ある人の妻』が川のほとりについたとき、
上流の方からある果物が流れてくるのが見えました。
どんぶらこ、どんぶらこっこ、どんぶらこ。
日本人だけが知る特徴的な音を立てて、その果物は流れてゆきます。
『ある人の妻』は果物を取りあげると家に持ち帰りました。
『ある人』と『ある人の妻』が果物を割ってみると、
中から赤ん坊が現れました。
『ある人夫妻』は、大変驚きましたが、
これは子供のいない自分たちへの神様からの贈り物だと思い、
その子を大事に育てました。
それから数十年後
『ある人とある人の妻の子供』は立派な子供に育ちました。
お話は続きます。
『ある人』と『ある人の妻』と『ある人とある人の妻の子供』が
所用で町へ行ったところ、
『ある人が住む土地の領主の使い』がやってきてこう言いました。
「『ある人が住む土地の領主が憎む魔物』が
『ある人が住む土地の領主が一番愛する娘』をさらってしまった。
『ある人が住む土地の領主の土地に住む人々』よ、お前たちのなかに
『ある人が住む土地の領主が一番愛する娘をさらってしまった憎むべき魔物を
退治しようという勇敢な者』はいないか!
もし見事救出できたものには、
『ある人が住む土地の領主が二番目に愛している娘』を娶らせてくださるぞ」
そこで『ある人とある人の妻の子供』が名乗りをあげました。
「私が行きます!」
『ある人が住む土地の領主の使い』は言いました。
「名は何という」
「『ある人とある人の妻の子供』です」
それを聞いて『ある人が住む土地の領主の使い』は首をかしげました。
「はて? 私の知る『ある人』には妻も子供もいなかったはずだが」
『ある人とある人の妻の子供』は困惑したように言いました。
「恐れながら、私はこの数十年間『ある人とある人の妻の子供』として生きてきました」
「それはつまり」と『(略)領主の使い』は眉を顰めます。
「『私の知るある人』は『ある人』ではない、と言いたいのかな?」
「いえいえ」と『ある人とある人の妻の子供』は首を振りました。
「どうか良くご覧になってください。『あなた様がご存じのある人』は
『ある人とある人の妻の子供の父である人』であるはずです」
『(略)領主の使い』は『ある人とある人の妻の子供の父である人』を
まじまじと観察しましたが、やがて首を振ってこう言いました。
「いや、『今私の目の前にいてある人を名乗る人』は『私の知るある人』ではない」
それを聞いて『今まである人を自称していた人』と『その家族』は動揺しました。
「それでは、私は一体……?」と『ある人であったはずの人』が呟きます。
それを聞いた『自分をある人の妻だと思っていた人』は
「これは何かの間違いです。いいえ、たとえ間違いがあったとしても、
私はあなたの妻です」と懸命に訴えます。
『いままである人を自称してきた人とその妻の子供であることを自認していた人』は
「私もです」と言いかけて、しかし、それを言葉にすることができませんでした。
心の底から突き上げてきた疑念を、つい口にしてしまったのです。
「それなら、私の父、『ある人』とは、一体誰なんでしょうか?」
『自分をある人の妻だと思っていた人』は怒りを隠せませんでした。
「何を言っているの。あなたは『ある人とある人の妻の子供』なのだから
あなたの父は『ある人』に決まっているでしょう!」と言って、
目の前の男性を指さします。
「ですから!」と、これは
『いままである人を自称してきた人とその妻の子であることを自認していた人』の声。
「あなたが今指さしている方は『ある人』ではなかったと、そう言われているのです」
『(略)領主の使い』が頷きます。
「そうです、私はこの方を知らない。この方は『ある人』ではありえない」
一人が怒鳴り、二人目が怒鳴り返し、三人目がわめきます。そして四人目が叫ぼうとして、
――四人目が誰だったのか、その場にいた者にはわかりませんでした。
四人目はこう言ったのです。
「私は誰なんだ?」
小さな声でした。まるで砂漠でからからにしなびたキュウリが風に吹かれて発する
悲鳴のような、そういうかすかな声でした。
他の三人はぎょっとしてその人を見ました。
ですがそれが誰なのか、もはや誰にも分りませんでした。
真っ暗な舞台の上にスポットライトが当たり、今度は下手から女性が出てきて言いました。
「私たちに、名前は必要ないのです」
彼女は上手に消えました。名前のないお話は続きます。そのはずです。
ふかふかの羽毛布団を引き寄せながら小さな女の子がねだります。
「お母さん、続き聞かせて? あのお話の」
母親は優しく頷きます。
「どの話?」
「あの話。名前のないお話の」
「名前がないならわかりません」
お母さんは明りを消しました。
真っ暗な舞台の上には、誰もいません。あの人も、その人も。
名前がないお話は、二度と語られることがないでしょう。
あとがき
名無しのごんべいのごんべいって何なんでしょうね。