心音、無音、無言

  • 超短編 3,328文字
  • 日常
  • 2023年02月19日 17時台

  • 著者:1: 3: ヒヒヒ
  •  昔、外出先で音楽を楽しむ為には、大金が必要だった。例えば、120回の再生を保障する携帯プレイヤーが、200万円。120回聞いてしまうと、そこで終わり、もう使えなくなるやつが。
     その時代は、今では生演奏時代と呼ばれている。そのころはまだ、音を機械で正確に再生することは困難だったのだ。だからそのころの音楽プレイヤーの中には必ず、中に人が入っていた。プレイヤーが高いのもそのせいだった。
     そんな時代に、カナデは小学校に上がろうとしていた。そんな時代に、彼女の家は貧しく、父親には音楽の才能があった。友人がエンジニアで、ちょうど自作の音楽プレイヤーを完成させたばかり。そういういろいろな偶然が重なった結果、父親はプレイヤーの中に入ることになった。
     契約終了は、10日が経過するか、120回目の演奏を終えたとき。代金は父を含むバンドメンバー4人と、エンジニア1人で山分けする。だから仕事を終えた後には、父親の手元には30万円が残る。そういう契約だった。そのはずだった。

     カナデは中学2年生になる頃から、白石清治の曲を聞くようになった。深海の底に響く地鳴りのような、暗く寂しい音楽だ。普通の子供が好むものではない。そういう曲を、母親からもらったプレイヤーにイヤホンを差して、毎日のように聞いている。長さ9cmの小さなプレイヤーを胸に抱いて、祈るように。
     友達がドラマに熱中し、その主題歌をクラスで繰り返すようになっても、カナデは白石の曲を聞き続けた。そのころには録音式のプレイヤーができて、歌い手本人の声を聞くことができるようになっていたけれども、カナデは古い、生演奏時代のプレイヤーを使い続けた。
     中に人がいるプレイヤーの良いところは、演者が許す限り、様々な要求ができることだ。替え歌やアレンジも自由自在。録音と違って正確な演奏は期待できない代わりに、毎日異なる音を楽しむことができた。
     そんなプレイヤーを、カナデはめったに人に見せなかった。それは彼女の秘密の宝物で、恋の悩みを打ち明けた親友にさえ教えなかった。ただ一人の例外は、恋の相手である先輩。「機械好きの彼が生演奏時代のプレイヤーを探している」と聞いたカナデは、三日間悩んだ末、彼に声をかけた。
    「あたし、古いプレイヤーを持っています」
     彼は嬉々として家にやってきた。けれど、カナデのプレイヤーが半分壊れていること、そのせいでドラムスの音しか聞こえないことを知ると、すぐに帰ってしまった。以来、カナデはプレイヤーを他人に見せたことはない。

     演奏ボタンを押すと、ドラムスの音だけが聞こえてくる。カナデが好んで聞いたのは、白石の『私が歌を歌えたのなら』声をなくした歌手の悲しみを"歌う"という奇妙な曲の歌詞は、ボーカル不在の為に聞こえない。ただ、激しく感情を発散させるドラムの音だけが、鼓膜を強く叩く。
     プレイヤーの再生欄には、107回と表示されている。もう1000回は聞いたはずだが、その数字は動かない。

     元の持ち主が落としたのだ。演奏が107回に差し掛かった時、デパートの階段で、プレイヤーを落とした。ギターとベース、ボーカルは慌てて"中から飛び出した"。だが、ドラムスがプレイヤーから出ようとしたとき、通行人がそれを踏みつけた。液晶とカウンターと、そして出口が壊れた。ドラムスは閉じ込められた。携帯プレイヤーの中の、科学の力で拡張された空間に。
     彼はカナデの父親だった。

     プレイヤーには歪んだ出口と別に入口があって、そこからは、食糧や日用品を入れることができた。出口はいびつな形ながらも開いてはいて、小さな物なら、物体を外に出すこともできる。しかし人を通すことはできない。救助の試みは30回以上繰り返されたが、すべて無駄だった。一か八か、機械を破壊することも検討されたものの、カナデの母が首を縦に振らなかった。

     カナデたちの声は、中にいる父には聞こえない。演奏のリクエストは、紙を差し入れて行う。ある時カナデは、食糧と一緒に手紙を入れた。
    「プレイヤーは私たちがもらいました。ずっと一緒だよ。安心してね」
     返事の手紙は即座に帰ってきた。
    「俺のことは忘れろ」
     箱に閉じ込められて、働くことすらできない。にもかかわらず飯は食う。娘の学費を稼ぐ為の仕事だったのに、かえって苦労させる羽目になってしまった。それならば、いっそ死んだものだと思って、肩の荷をおろして欲しい。そう言いたいらしかった。
     その後から、彼は演奏を拒むようになった。食料を入れても、食べているかどうかわからない。母と子は困って、一計を案じた。母親の友人に、手紙を書いてもらったのだ。
    「あなたのご家族から、プレイヤーを譲り受けました。ドラムスの音だけで構いません。演奏していただけませんか。もちろん、その都度、お金は支払います」
     手紙とともに紙幣を入れると、ややあってから、楽器の演奏が聞こえてきた。
     その日から、父親は演奏をするようになった。家族を養っているという自信が、ドラムの音にみなぎっているように感じられた。それは誇らしげでありながら、苦しげでもあった。その演奏を聞きながら、彼の娘は夕日を眺めたり、歌を口ずさんだりした。

     その入口は、プレイヤーの側面に開いている。イヤホンを差す穴よりも少しだけ大きい。蓋を外し、指や物を近づけると、少し震えて、プレイヤーの中に通じる門を開く。その穴は暗い。真っ暗だ。吸い込まれそうなくらいに。
     時々カナデは、そこから目を離せなくなることがあった。
     あの日。憧れていた先輩に父のことを話した後のこと。
    「そんな話を聞かされても……」と言って、先輩が逃げ帰った夜のことだ。カナデはプレイヤーを両の手に握りしめ、入口を睨んだまま、身じろぎ一つしなかった。
     簡単なことだ。穴をくぐろうと前のめりになれば、カナデの体は縮み、プレイヤーの中に吸い込まれる。うまくいけば、父の隣に立てるだろう。ちっとも難しくはない。出口は壊れているが、だから何だというのだ。このままここにいて、それが何になるのだ。
     入口を見つめたまま、彼女は30分以上もそうしていた。父の演奏は終わっている。日は沈み、明りをつけていない部屋は真っ暗だった。机や本棚が輪郭を失いつつある暗闇の中で、ただ、銀色のプレイヤーだけが、鈍い光を放っている。
     彼女はゆっくりと、穴に顔を近づけていった。
    「シチュー、冷めちゃうよ」
     母親の声を聞いた瞬間、カナデははっと顔を上げた。ドアが開き、廊下の明りが差し込む。どうしたの、と問う母親に向かって、カナデはこわばった笑顔を見せた。
    「振られた」
    「どこのバカよ、あんたを振るような男は」
     それ以来、彼女は門限を忠実に守るようになった。友達に呼ばれても、バイトが遅くなっても、夕飯のときだけは、母親とともに過ごすようになった。



     カナデの母親が亡くなったのは、カナデが高校を卒業して、就職した後のことだ。
    「気が抜けちゃったのかもね」と、カナデは親しい友人に呟いた。
     生演奏時代は終わり、無人式と呼ばれる携帯プレイヤーが、5000円で買えるようになっていた。インターネットが普及し始め、歌の値段が、お菓子よりも安くなりつつある。しかしまだ、ソフトウェアが歌を歌うことはできない。そういう時代がやってきた。
     父親も衰弱しつつあった。演奏は力をなくし、リズムを捕らえ損ねることも増えた。食料が多すぎる、と伝えてきたこともある。なにより、今までしなかったことをするようになった。家族の現況を聞いてくるようになったのだ。
     カナデはすべてを打ち明けた。プレイヤーを買ってくれた人などいなかったこと。ずっとカナデが持っていたこと。母が死んだこと。
     父の手紙は短かった。
    「ここには来るな。お前には未来がある」
     ボールペンを、できうる限り強く押し付けて書いたのだろう。紙の一部が破れかけていた。
     カナデはすぐに返事を書いた。
    「『私が歌を歌えたのなら』聞かせてよ。毎日聞かせてね。ずっとだよ」



     カウンターが107回で止まっているので、何回目の演奏だったかは、誰にも分らない。数千回かもしれないし、数万回だったかもしれない。ともかく、朝、カナデが職場へ向かう電車の中で聞いていたときのこと。父親の演奏は、終わった。

    【投稿者:1: 3: ヒヒヒ】

    あとがき

    昔書いたお話をリメイクしてみました。

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    コメント一覧 

    1. 1.

      20: なかまくら

      読み始めてすぐに、読んだことあるぞ! と思いました。
      これ、名作ですね。お父さんもお母さんも、それぞれにカナデをちゃんと育ててくれたんだな、と両親の愛情を感じます。
      子どもにはそういった人が必要なんだなと、シンプルに伝わってきました。