じいじのファンレター その2「イチローさんへ」

  • 超短編 3,058文字
  • シリーズ
  • 2019年04月06日 14時台

  • 著者: 2: 幸楽堂
  • 〇 聖泉女学院高校 正門
     春休みも残り3日となったある日の夕暮れ、近くに一台の軽自動車が停まった。窓を開けて老人が柔和な表情で外を見ている。禿げ上がった頭に風が当たり、頭頂部に若干残った白髪と口の周りの白髭を揺らしている。その長い髭を手で撫でながら考え事をするのがこの人のクセである。
     老人は古沢重雄、71歳。この人物の素性は「その1」を参照されたい。待ち人は孫の理恵で17歳の新3年生。吹奏楽部でクラリネットを吹いているのだが、春休みも練習があるので、遅くなる日はこうしてじいじにクルマで迎えに来てもらうことになっている。理恵の通学手段は自転車だが、古沢家は高校から20キロも離れているので練習でバテた理恵の体には遠すぎるのだ。
     重雄は理恵を迎えに行くのも楽しみのひとつになっていた。なぜなら車中で孫に話相手になってもらえるからだ。超安全運転で引っ張っての約30分は、じいじと孫娘との雑談タイムである。
     重雄の目に、小柄な体に重そうな荷物を抱えながら正門を出てくる笑顔の理恵が映った。
    「じいじ、お待たせ!」
     慣れた手つきでドアを開けて後部座席に荷物を放り込み、助手席に座る理恵。彼女についても「その1」でちょっとふれている。
    「ご苦労さん」
     いとおしむような目で理恵の横顔を見ながら声をかける重雄。
    「さあ、じいじ。今日は何のお話? 誰に手紙を書いたの? 早く聞かせて! 」
     理恵もわきまえたもので、重雄が迎えに来ると車中で話すことが決まってファンレターの中味であるので、先に自分から本日の相手を訊いてくるのだ。
     重雄は感激しやすい気性の持ち主で、何かにつけ感激したり感動すると、その人物にファンレターを書くのであった。但し、それは投函されることのない幻の手紙であり、内容は家族の中でも何故か孫の理恵だけに語り告げられるのである。
    「よし、じゃあ帰るか」
     重雄はエンジンをかけてギヤを入れ、クルマを走らせながら語り始めた。
    「今日のファンレターの宛先は、イチローさんだ」
    「イチローさん……って、あの野球選手の? たしかアメリカの大リーグの選手なのよね?」
    「先月、引退を発表したんだよ」
    「へえ、そうなんだ」
     ここからいくつかの質問が出たので、重雄はしばらく、MLBのことなど基本的なことを理恵に解説することになった。
    「それじゃあ、読み始めるよ」
     と言っても重雄が手紙を取り出して朗読するわけではなく、頭の中に記されている手紙を読むのだ。それも重雄にとっては立派なファンレターなのである。
    二人を乗せたクルマは市街地を抜けて、田園風景の国道へと入って行った。
    「イチロー選手こと、鈴木一郎様 イチローさんと呼ばせて下さい。今回もとても立派だと思いました。そうです、国民栄誉賞の3回目の辞退です。3度目の正直と言うけど、すごいですね。『人生の幕を下ろした時に頂けるよう励みます』という断わり文句もカッコいいです。あなたにははっきりしたポリシーがあるのですよね。国民栄誉賞という名称に惹かれる人なら辞退はしないでしょうが、あなたほどの人ならこんな福田赳夫が発案して作ったような虚飾の賞など受けなくたって、ましてや安倍晋三なんかに表彰してもらわずとも、あなたはすでに国民の栄誉として認知されているのだからそんな賞は無用だと思います。それは王選手に始まる受賞者の皆さんにも言えることだったとは思います。「国民栄誉」などと名称はよいが実態は選定基準も曖昧で政治利用につながるような問題のある賞など必要のない人々が授与されてきたと思っています。それでも名誉欲が強い人はどんな賞でも欲しいと思うかも知れません。そんな人の中にも1度くらいパスしたってまたチャンスは来るからということで辞退することもあり得るでしょうが、3度というのはなかなかいないでしょう。これに対して、地元での賞は喜んで受ける、でも国家の賞は受けない……、そこに私はイチローさんのポリシーを垣間見させて頂いた思いです。つまり名誉欲なんかとは無関係な、むしろ地元の人々の名誉のための受賞という意味です。凡人には出来ない偉大な行為だと敬服します。私などは、軽薄な安倍なんかが表彰するような賞など、どんなに立派な名称が付けられていても無価値だと思います。さらにあの陰気で辛気臭い菅が官房長官で内閣を構成しているような今の政府のもとではどんな賞も輝きを失うと感じています。世間にはこの賞が政権の浮揚策とか人気取りだといった批判や、今回の場合は夏の参院選を前にした政治利用との意見もありますが、傾聴に値すると思います。ところでイチローさん、私にはこの春で高3になる孫娘がいます。吹奏楽をやっていますが、スポーツ界だけでなく音楽の方でも賞というものが極端に重視される時代のようです。孫は理恵といいますが、彼女の高校の吹奏楽部では顧問の先生がコンクールで賞を獲ることばかりを言うそうです。インセンティブの一つとしてはいいかも知れませんが、賞を獲る,獲らないということが究極の目的ではない、ということを今回のあなたの国民栄誉賞辞退から学ぶことができます。かつてオリンピックは参加することに意義があるといわれていたのに今ではメダル獲得のことばかり言って、テレビ局などはメダル獲得の可能性の高い選手ばかりをクローズアップしていますよね。水泳の池江選手の病気のことを熱心に報道するのも彼女がメダル獲得を期待されているからに他なりません。テレビ局のようなマス・メディアによって日頃、本来の文化的精神を汚されてしまっている国民が、今回のイチローさんの3度目になる国民栄誉賞辞退という出来事を通して、スポーツや音楽の原点に心を向ける機会を得ることができればいいなとつくづく思います。こうした機会を与えて下さったことを感謝し、この手紙を書きました。新しい分野での今後の御活躍をお祈り申し上げます。古沢重雄」
    「じいじ、ありがとう。私たちは賞を獲ることが第一ではなく、仲間と練習に励んでそこから友情を育んだり自分の限界に挑戦したりすることが大切なのね」
    「そうだ。結果よりも過程の方に本当の価値があるんだ。どんなに努力しても結果が出なければ無意味だとか、逆に結果さえ良ければ手段はなんでもいいといった社会では国は滅ぶのさ。今の日本社会は、学校教育さえそういう傾向にある。理恵にはそんな社会に適応するような人間にはなってほしくない。お父さんもお母さんも同じ意見だと思うよ。顧問の先生がどう言おうが気にしなくていいよ。音楽は音を楽しむってことだろう?賞を獲るための練習なんか楽しくなんかないよね?」
    「うん、全然、楽しくない」
    理恵の目から涙がこぼれた。
    「あんまりうるさく言うようなら、その顧問の先生に言ってあげなさい、自分たちは学校の名誉や顧問の先生の点数稼ぎのために音楽をやってるわけではない・・・そう言いなさいと私の祖父が言ってましたって!」
    「じいじ、あたし、賞なんか気にせずに、練習、楽しんで頑張るよ」
    「よし!それでこそ俺の孫だ。理恵、今は勉強も部活もがむしゃらに頑張る時だ。そしたら大人になって、きつい時でも乗り越えてゆく力が出てくるよ。そして、若い時に苦労しておいてよかったなと思うよ」
    「うん。じいじ、ありがとう。あたし、頑張る」
    そして理恵は、春休み期間中の出来事などを快活に喋り続けた。
    やがてクルマは自宅に近づいていった。
    「さあ、着いたぞ」
    重雄はエンジンを切って、ハンドルに手を懸け、理恵が玄関に入る背中を見つめながら、ほっと息を吐いた。(終)

    【投稿者: 2: 幸楽堂】

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