私たちは、駅前にあるファミレスに向かっていた。長い長い坂をゆっくりと下りながら、私は先ほどの狼狽を無理に誤魔化している。
「ごめんごめん、お店の名前、ど忘れしちゃって。」
「もー、やっぱりハルのがずっとおばあちゃんじゃん。」
「いや、だからおばあちゃんじゃないし。」
そうやって笑いながら、私の頭の中は後悔でいっぱいだった。ナナが良いと言ってくれたとはいえ、私のごく個人的な、つまらない理由で断ってしまって。
正直、私にだって新しいカフェに行ってみたい気持ちもあった。ナナと新しいお店に行くのはいつだって楽しい。新しい思い出が増えるから。それを棒に振ったのは、他ならない自分自身だ。
ああ、馬鹿なことをしているなあ。ともう一人の私が冷めた目で見つめている。余計な気持ちを持たなければ、もっと幸せに過ごせるのに。楽しく過ごせるのに。折角の時間を自分で台無しにしちゃって。馬鹿だなあ。
「あれ、そういえばハル、今日は自転車で来なかったんだ?」
「・・・あ、うん、そう。」
上の空になっていたところに問いかけられ、私の口からは咄嗟に嘘が飛び出る。自転車は、大学の駐輪場においてきた。
大学から駅までの道は歩道が狭く、自転車を引きながらだとどうしても隣に並んで歩きにくくなる。それに駅までの道のりも坂になっているので、自転車を引きながら歩くのは結構しんどい。でも、なんとなくそれを彼女に悟らせたくはなかった。
「自転車でこの急な坂を登るのも、この年になるとなかなか大変でねえ。」
口からすらすらと出てくる嘘に、心の奥で辟易とする。いつの間に、私はこんなに嘘をつくのが上手くなったんだろう。
「いつまで続けるの、このご老人トーク」
ナナがくすくす笑いながら答えてくれる。その笑顔に罪悪感を感じながらも、私は笑顔を返した。ナナといるときは、できるだけ笑っていたい。
すると、ナナが何かに気づいたように、私の後ろを指差した。
「あっ、ハル。あれ。」
ナナが言うのと同時に、おーい、という声。彼女が指差した向かいの道路から、手を振っている人の影が見えた。私は視力が悪いので、いまいち誰だか分からない。首を傾げながら曖昧に見ていると、ナナがその人物のもとに駆け寄っていく。
「お久しぶりです、カナ先輩!」
「お、偶然だね~。二人は練習帰り?」
私たち二人ともよくお世話になった、ドラムのカナ先輩だった。現役の時にはドラムパートのリーダーをしていて、楽器はとても上手だし、後輩の面倒見も良い。その上教え上手で、二人とも尊敬している先輩だった。去年の文化祭の時には、先輩が演奏する最後のライブを見ながら二人で大号泣してしまった。卒業後も大学の近くで就職していて、今でも時々部活には顔を出してくれる。夏休みのライブ以来だから、こうして話すのはちょうど三ヶ月ぶりくらいか。
「お久しぶりです、先輩。そうですよ、二人で連弾やるんです。文化祭で。」
「おっ連弾なんてやるんだ!そりゃまた珍しいねえ。」
確かに、軽音でピアノ連弾なんてなかなかやるものでもないだろう。最近は随分ツーピースバンドなんかも増えてきたが、大体はギターとドラムとか、ベースとドラムとかの編成だ。
「ふふ、変わってますよね。最後に二人でなにかやりたいねー、ってハルと話してて。」
「そっか、同じパートだとなかなか一緒にバンドできないからねえ。」
「とはいえ、やるのはクラッシックじゃなくて邦楽のピアノアレンジですよ。ナナと二人で好きなやつ選んで。」
「おっ、ってことは二人が好きなあの曲とかもやるかな?俄然楽しみになってきたー!」
「えっ!先輩、文化祭来れるんですか?」
「もちろん行くよー!しっかりお休みとったからねー!」
やったあ、と私たちはハイタッチする。先輩が見に来てくれるなら、一層頑張らないと。
「二人は相変わらず、双子みたいに仲良しだねえ。」
「えへへ、私たち、キーボードパートの双子なので。」
そう言ったのはナナ。
後輩先輩問わず、私たちは二人まとめて双子と呼ばれることが多かった。同期のキーボードパートが二人しかいないからだとか、いつもライブに一緒に来るからとか、背丈が同じくらいだからだとか、誕生日が近いからだとか、由来は結構色々ある。あまり自分から吹聴して回ったりはしないけれど、私はこの呼ばれ方がこっそり気に入っていた。
「つまり、七海ちゃんとハルちゃんの双子連弾か!これは息ぴったり間違いないねえ。」
七海ちゃんというのは、ナナのことだ。彼女のことをナナと呼ぶのは、私くらいしかいない。それに対して、私は部活のみんなからハルとか、ハルちゃんとか呼ばれていた。入部直後、お互いに呼びやすいように短いあだ名を付け合っただけなのだが、なぜか私のあだ名だけが他の人にも浸透してしまったのだ。若干解せない部分もあったが、単に四文字もある私の名前が長くて呼びにくいだけかもしれない。
「それに、二人ともピアノすごく上手だしね。うん、楽しみだ!」
カナ先輩の言葉に、私は少し気恥ずかしさを感じつつ、正直に答える。
「私より、ナナの方がずっと上手いですよ。」
「また、そんなこと言って。ハルのが絶対上手いもん。」
私は本気でそう思っているのだが、ナナが同じように返してくるせいで、いつもどこか茶番っぽくなってしまう。客観的に見れば確実にナナの方が技術が高いと思うのだが、彼女は頑としてそれを認めない。私がナナの演奏を羨ましいと思うように、ナナも私の演奏に何かしら思うところがあるのだろう。隣の芝はなんとやら、というやつだ。
相変わらず始まった私たちの押し問答に、先輩がやれやれ、と苦笑した。
「はーいはい。どっちも上手だから、喧嘩しないの、ね?」
はーい、と二人で声をそろえて返事をする。あまりにもいつもどおりのやり取りに、三人でぷっと吹き出した。三ヶ月ぶりとは思えない、この感じ。
「あー、喧嘩といえば、さ。七海ちゃん。」
笑いすぎて涙の滲む目尻を擦りながら、カナ先輩がナナに話を振る。
「またコウキと喧嘩したらしいじゃん。」
「えっ」
その言葉に、ナナが分かりやすく動揺を示した。その横で、表情を変えずに私も動揺する。
「なんでカナ先輩が知ってるんですか!」
「この前、仕事終わりに同期で飲んでねー。その時にボヤいてたよ。」
先輩たち同期は近場で就職した人が多くて、卒業してからもよく飲みに行っていると、別の先輩からも聞いていた。
「うう。またすぐ、そういうことを人に言うんだから。」
はあ、とナナがため息をつく。
「だって、今回のは彼が悪いんですよ。」
ナナが事の経緯を先輩に話し始めた。
「あー、それはひどい。私が聞いた話とちょっと違うなあ。」
「もう、そうやってすぐ、自分に都合よく話すんだから。」
私は一歩引いて、二人の会話を静観する。あまり、話に加わる気がしなかった。
コウキこと、コウ先輩のことは、私も大好きだ。あっけらかんとしていて、まっすぐで、裏表がなくて。楽器もとても上手だし、オススメのバンドもたくさん教えてもらった。飲みに連れ出してくれたり、一緒にバンドを組んだり、現役時代にもすごくお世話になった。だからこそ、こんな風に思ってしまう自分が嫌になる。
「ハルちゃんはないの?そういう話。」
突然振られて、ドキリとする。思わずナナの方を見そうになってしまって、慌てて、
「もう、カナ先輩ってほんと、この手の話好きですよね。」
と無難な回答に努めようとしたのだが、
「あ、話そらす気かー?怪しいぞー?」
「えーっ、なんかあるの、ハル!」
と一斉に詰め寄られてしまった。だいぶ平静を取り戻した私は、苦笑しながら答える。
「ないない。ないですって。」
そんな私を訝しげに眺めながら、カナ先輩が言う。
「そういえば、ハルちゃんと恋バナってしたことないなあ。」
「実は、私もなんですよ。ハルってば、全然相談してくれないんだもん。」
そう言うと、ナナは私の目を上目遣いで見つめる。
「ちょっと、寂しいなあ。」
この言い方は、ずるい。
う、と思わず言葉に詰まってしまった私を見て、カナ先輩が吹き出した。
「あはは。出た。七海ちゃんの殺し文句。」
見事にその文言に殺されてしまった私は、急に顔が熱くなるのを感じた。
「ハル、顔が真っ赤。」
「クールぶってるけど、ハルちゃんのこういうとこが可愛いよねえ。」
「別に、クールぶってないですってば・・・。」
完全にからかわれている。カナ先輩のこういうところは今でも健在だ。気恥ずかしさで、火照った自分の頬をぺしぺしと叩いていると、先輩は腕時計を見て思い出したように言った。
「さて、と。そろそろ行かなきゃだわ。」
「あ、そういえば大学に用事ですか?」
「そうそう、ちょっと研究室に顔出そうと思ってね。」
研究室。あまり聴きたくない言葉だ。思わず目を逸らした私たちに
「二人とも、バンドもいいけど、卒論も頑張りなねー。」
と先輩が追い討ちをかけてきた。
あー、あー、聞こえなーい、ととぼけている私たちに、せいぜい頑張りなさいよ、学生たち!と無責任な言葉を残して、カナ先輩は去っていった。
先輩の背中を見送りながら、私たちは顔を見合わせる。
「相変わらずだったね、カナ先輩」
「ねー、まったく、もう。」
まだ若干顔が熱い気がして、思わず頬を押さえる。そんな私の仕草にくすっと笑ってから、でもさ、とナナが続ける。
「なんか、大人っぽくなってたね。」
「それ、私も思った。なんというか、全体的にスラッとしてる感じ。」
「やっぱ働き始めると、大人っぽくなるのかなあ。私も早くカッコいい大人の女性になりたいなあ。」
「え、なんか想像できない。」
「あ、ひどーい。私だって、来年の今頃にはカッコ良いキャリアウーマンだもん。」
「・・・ま、せいぜい頑張りなさいな。」
先ほどの意趣返しとばかりに、ナナの膨らんだ頬にぷすり、と指を刺す。ぷう、と頬に溜まった空気が、彼女の唇から漏れ出した。
「来年の今頃、かあ。」
尖らせた唇から、空気と共に言葉が漏れる。
「私たち、何しているのかなあ。」
その言葉に、私は思わず嘆息する。
「全然、想像できないね。」
同じ場所、同じ道を歩いているように見えても、人それぞれ進む道は違う。それぞれの道が、今たまたま重なっているだけだ。
来年の今頃、きっとナナの隣に私はいない。
「楽しみなような、不安なような。不思議な感じ。」
そう言った彼女の瞳は、どんな未来を見つめているのだろうか。そう考えると、胸がきゅっと痛くなった。
本当に、私たちが双子だったら良かったのに。
そうすれば、ずっと一緒にいられるのに。
続く
コメント一覧