コンビニしかないさびれた駅から十分ほど歩いたところにある、くすんだ色のワンルームマンション。
呼び鈴を三度押しても、彼女は出てこなかった。
「私です。同期の浮嶋あきほ」
それから数十秒ほど待って、やっと扉が開いた。もともと長かった髪はさらに長くなって
ぼさぼさになっていた。4カ月前にあった時よりずっと青白く、やつれている。
3年前、同じIT会社に入社した同期、小日向詩音。
私はあえて冗談を口にした。ずっと考えていた冗談を。
「プリントを届けに来た。……話、しない?」
彼女とは、深夜のファミレスで上司の悪口を言い合うくらいには仲が良かった。
彼女はちょっと微笑んで「あがってく?」と言った。その言葉の中にある、100分の3倍ほど
希釈した「できれば帰ってほしいんだけど」と言うニュアンスを無視して、私はうなずく。
台所を通って、一つしかない部屋に通される。ベッドのそばに小さなテーブルがあって
しおんはクッションを取ると、私のために敷いてくれた。
「座って」
話すこと、話せそうなこと、事前に考えてきたのに、全部吹っ飛んでしまった。
――どうして会社来ないの
一番言ってはいけなさそうなことが飛び出しそうになって、慌てて止める。
結局出てきたのは「しおんがいたプロジェクト、軌道に乗ったみたいだよ」
「そっか」
薄い笑みを浮かべただけで、彼女は詳細を知りたがらなかった。
――あれだけ頑張ってたのに。誰よりも早く来て、誰よりも遅く残ってた。
それが却ってまずかったのだと、今になって思う。入社したばかりの、右も左もわからない
新米が、プログラムで先輩たちに追い付けるはずがない。新人は新人らしく、
できませんと言って上司に泣きついていればよかったのに、同期の中で
頭一つ抜きんでていた彼女は、うまく逃げることができなかった。
疲労がたまってミスを連発。連休を直前に控えたところで、社外秘の資料を同姓同名の
他人に送付。障害報告、再発防止案の作成、ただでさえ遅れていたプロジェクトの完成が
さらに遠のいて、折れた。
ありふれた事故、ありふれた挫折。
――今日で欠勤三カ月。給与はノーワークノーペイの原則で、0円、支給なし。
――健康保険の傷病手当金は、本人が申請しないと支給されなくて、その説明と書類を持ってきた
なんと切り出していいかわからずに、唾を飲み込む。
すると、しおんはぽつりと言った。
「あたしね」本当にどうでもいいことなんだけど、という風に、さりげなく。
「その気になったら、いつでも時間を止められるんだよ」
本当にどうでもいいんだけど。あなたが冗談だと思うのなら、冗談として話すんだけど。
でも、もし聞いてくれるなら、本当のことを打ち明けよう。そういう、かすかな熱を
帯びた口調で、しおんは言う。
「聞かせて」ガラスでできた宝物を扱うように、そっと促すと、彼女は続けた。
「簡単なんだ。あたしが大事にしている懐中時計――お母さんからもらったんだけど
この時計をね、砕いて割ってしまえばいいんだ」
いったい何を言い出すんだろうと思ったのを、しおんに悟られませんようにと
心の中で念じた。一度でもあざ笑ったら、彼女はもう心を開いてくれないだろう。
しおんは言う。
「時計が壊れたら、世界が止まるの。時計の時間だけじゃなくて、この世界の時間が止まってしまう。
何も始まらないし、なにも終わらない。蛇口から滴る水滴は宙に浮いたまま、誰も動けないし
私も動けない。何も感じない、何も起こらない。
私ね、ずる休みをしようと思って、会社に行かなかったわけじゃないんだ。
もうミスをしたくない、迷惑をかけたくない、追いつきたいって、ずっと思ってた。
でも、体が動かなかった。
毎晩、寝る前に誓うんだ。明日こそは会社に行くって。明日こそは6時に起きて、支度をして
7時の電車に乗って、8時前には会社につこうって。でもだめなんだ。5時に目が覚めて
なのに体が動かない。6時になっても、7時になっても。
始業時間になると起き上がれるの。ずるいでしょ? それで、今日は仕方ない
今日は仕方ないよって自分をなだめて、顔洗って、音楽聞いて、お茶を飲んで、瞑想して
でも何をしても気持ちは変わらなくって、もう嫌だ、もう嫌だって声が止まなくて
そこで思うの。
時間を止めればいいよって。懐中時計を、母さんからもらった時計を、壊せばいいんだって。
でもさ、こんな風に、何もかも嫌だ、って、誰もが思うことじゃない? 今だって、電車の中で
オフィスで、仕方なく付き合う居酒屋で、あるいは一人ぼっちの部屋で、秒針を見つめている
人がいるはずなんだ。時間よ止まれ、世界よ滅びろって。
ねぇ、いいじゃない? 月曜日なんて、来ないほうがいいんだよ。毎日そんなことを考えてる」
彼女はそこで、息をついた。閉めたままのカーテンの隙間から光が差し込んで
どこからともなく、子供たちのはしゃぐ声が聞こえる。
彼女はどんな子供だったんだろうと、どこか外れたことを考える。初めて会社で会ったとき
微笑みかけてくれたのは彼女の方だった。
「でも、だめなんだ。
壊せ、壊せばいい。壊してしまえばいい。そう思って、秒針を見つめてるでしょ。
限界だ、もう限界だ、って、そう、決まってそうなの。そのときに、子供たちの声がするんだ。
顔も知らない子たちの楽しそうな声がさ、ひらがなさえ書けないような小さな子たちが
あたしの家の前できゃあきゃあ騒いで、それで信号が青になると『また明日ね!』って言って
別れるの。
それを聞いちゃうと、私は時計を壊せなくなる。明日まで待ってたって
何か素敵なことが起こるわけでもない、むしろ何もかもが悪くなっていくだけなのに
それなのに、私は時計を壊せなくなるんだ……」
追いかける声と逃げる声、見つけた声と茶化す声。
声、声、声。小さな子供たちは楽しそうで、それは底抜けに明るくて
私は黙って、テーブルの木目を見つめてた。
あとがき
ちょっと真面目過ぎるんだと思うんですけど
袋小路の抜け出し方がわからない。
コメント一覧
前半の暗い雰囲気から、子どもの騒ぐ声のところで、ぱっと情景が見えてきたので、やはりヒヒヒさんは描写力があるなと思いました。
コメントありがとうございます。高校の頃に書き始めてから10年以上書き続けてました。
転落するところまでは書けるのに、登って行くところが書けません(笑
時が止まるところから、死んでしまうラストを想像して、ドキドキしながら読んでいました。
例えば、時計には毒ガスが仕込まれていて、壊すとモクモクうぎゃー! みたいな。
迫真の感情、という感じで、しんしんと読む人の心に想いが積もるようで、素敵でした。
なかまくらさん、感想ありがとうございます。
母からもらった懐中時計、実は心臓を意味してたりします。
こういう暗い感情の吐露が得意みたいです(笑(何
「止まった時の中で独りで暮らす」
会社関係が気が楽になるだけで、罪悪感に苛まれて暮らす。
時計は壊さない方がマシですね、私だったら。