おふくろの記憶を書き換えたことは、今でも間違ってなかったと思っている。
報せを聞いた時にはもう手遅れだった。おふくろの体は転移したがんでいっぱいで、手の施しようがないと言われた。
もっと早く親孝行すべきだった。喧嘩して家を飛び出してから10年、そんなに長い間放っておくつもりはなかったのに
大口をたたいた手前、東京で名前が売れないことには合わせる顔がない。そう思っているうちに時間が経っちまった。
病院に駆け込んだ時、おふくろは俺の顔を見て「来てくれるとは思わなかった」と言った。
人付き合いの下手なおふくろだ。親父ももう死んでる。さぞ孤独だっただろう。
「何かしてほしいことはないか」どんな願いでもかなえてやろうと思った。そしたら言ったんだ。
記憶を買いたいって。
当時、架空の記憶を埋め込む技術はすでに実用化されていて、施術をする業者が雨後の筍のように増えていた。
業者は、依頼者が望む通りの記憶を創ってくれるという。どんな記憶が欲しいかと聞いたら
この10年間、俺と同居していたことにしたいと答えた。
俺は技術に疎いから、業者の説明はちっとも呑み込めなかった。安全かもわからない。
だけど、おふくろがしたいと言った。だからやった。
ヘッドマウントディスプレイを装着し、頭に電極を付けて、2時間半、待つ。
「映画を見ているようなものだと思ってください。その映画は、目で見るのではなく、脳で見るんです」
すかした感じの技術者がそう言って、おふくろの頭に装置を付けた。
その翌朝、おふくろの顔はいつになく晴れやかだった。
植え付けられた記憶は本物の記憶と区別がつかない。植え付けられたことすら覚えてない。
おふくろの頭の中で、俺は、10年間ずっと献身的に世話をしてくれた優しい息子として書き換えられていた。
そんな俺を、おふくろが愛さないわけがない。毎日会うたびに、おふくろは俺に礼を言った。
お前はうそつきだ、と言われたら、その通りだと答えよう。
だけど、母親を裏切ったのだと言われたら、それは違うと言いたい。
おふくろが死んだとき、看護師に言われたんだ。「とても幸せそうな顔をされている」と。
今でも間違っていなかったと思っている。おふくろの記憶を書き換えたことは。
あとがき
善い人生とは何か。善い記憶を残すこと。では、それが機械で実現できるとしたら? インスタントに善い記憶を得られるとしたら。そう思って書きました。
コメント一覧
誰のためであるかと言うことなのだなと思いました。
母のためであれば良いことであり、
自分のためであれば良いことではなかったのでは、と思います。
倫理のゆがみを感じます。
ああ、でも、母が一緒に居たかったと言ったこと、息子としてうれしかったのかもしれませんね。
なかまくらさん、感想、ありがとうございます。
記憶の売買は(このままテクノロジーが進めば)避けて通れない問題として現れると思います。
ひょっとしたら「母も息子も幸せなのだから、なんら問題はない」と言われる未来も
ありえるのかもしれないですね。
あぁ、この話はあまりにも私に刺さります。
母が望んだのはなぜなのか? 息子を責めていたとは思えません。
息子に思いを背負わせない為に、自分は大丈夫だったと笑顔で逝くために記憶を買ったのかと思ってしまいます。
空白の10年があまりに辛かったのかもしれません。
今の現実から目を背けたい気持ちは痛いほどわかります。
私の周りには自分の記憶を書き換える人たちがたくさんいます。
あったこと、なかったことが数分おきにグルグル変わる人と毎日会います。
この話はあまりに私に刺さります。
茶屋さん、感想、ありがとうございます。
記憶できない、あるいは記憶がすぐに書き換わってしまう人々のことは
オリバー・サックスという神経科医の本で読みました。
その時に、人間は記憶がないことによって苦しめられることもあれば
それに救われることもある、と思いました。
将来、記憶すら意のままに操る技術を人が手にしたとして
私たちはそれを正しく扱えるのだろうか、とも思います。