「織姫と彦星は一年に一度しか逢えないなんて寂しいね」そう私が言った時、母が見せた誇りと諦めが入り混じった笑みを今でも覚えている。
あれは小学二年生の頃だっただろうか。授業で聞きかじった内容を話したがる、活発な少女だったあの頃。今にして思えば、児戯たる無邪気と悪意に背筋が凍る思いがする。
「奏多。一年に一度でも、一生に一回でも、この人しかいないと想える人を愛するのなら、それはそれで幸せのカタチなのよ。」
母の言葉は気丈だった。その揺るぎなさこそが私にとっては母性だった。左手の薬指に嵌められたダイヤのリングは、孤高の精神と強さの象徴だった。
こうして当時を振り返ると、母の活き活きとした表情の一つ一つが思い起こされる。その度に、棺桶に収められた穏やかすぎる笑みとの落差が、ちくちくと心を苛んでいた。本当にこれは母なのだろうか?諦めの悪い疑念に縋りつきそうになるのを抑えて、その姿を脳裏に焼き付ける。花束や、お気に入りのカーディガンと共に、一枚の写真が納められている。その写真は唯一父と母が一緒に収まったものだ。写真によれば、父は柔和で丸眼鏡が似合った穏やかな顔つきをしていたけれど、背が高く、引き締まった体つきだったようだ。この頃は三十代だろうか。物心ついた時にはすでにおらず、一度も会ったことはないのだけれど。
コロナウィルス変異体の感染拡大、太陽風の災害、出産率の低下による人口減少。日本は下世話な人間の噂になるようなバッドニュースに取り巻かれていたけれど、母の突然の訃報は一番の悪いニュースだった。急性心不全。女手一つで私を育て続けた過労が祟ったのだろうか。その問いに答えてくれる人は誰もいなかった。
「松島百合子は強くて、誰より優しい私の自慢の母でした……。」弔辞なんてものは、いざ自分がやるとなると月並みの言葉しか浮かばない。弔問客は親戚の叔父さんや、母方の従兄弟といった身内だけでなく、母の務め先だった場所の同僚などたくさんの人が訪れている。母はこんなにも慕われていたのだと思うと、悲しくも嬉しい。一通りの役割を終え、ぼんやりと弔問客を見ていると、見覚えのない姿がある。それはどこか懐かしく、でも、いるはずのない姿。柔和で丸眼鏡が似合った穏やかな顔つきをしていたけれど、背が高く、引き締まった体つき。いる。あの写真の生き写しのような姿をした男性が。すぐそこに。
両親のいない私を引き取ったのは、母方の祖母だった。大学は学費を援助してもらい、無事卒業することができた。卒業後、祖母は以前勤めていた官営の寮を紹介してくれた。幼い頃からたまに祖母の手伝いをしていたから、馴染みのある職場ではあった。昔からの顔見知りもそこそこいた。でも、転勤の多い自衛隊員や宇宙開発戦略庁員などが入る寮だから、入れ替わりが激しく管理しなければならないことは多い。当初は慣れない仕事にかなり苦労したけれど、二年も経つうちに何とかこなせる様になっていた。
「新しい人が今日から入ることになったから、案内をお願いね。もうすぐ来るはずだから。」十月にしては珍しい、新規入寮者だった。
「了解しました。」上司からの依頼に応えてロビーに向かうと、ちょうどトランクを引いて、一人の男性が入ってくるところだった。
「すみません。」声の主の男性を見て、驚いた。柔和で丸眼鏡が似合った穏やかな顔つきをしていたけれど、背が高く、引き締まった体つきは、あの日見た姿のままだった。以前見かけた時には、結局話すことはなかったけれど、驚きと不思議な懐かしさに戸惑っていた。
「……あの?大丈夫ですか?」固まったままの私を気に掛けるように声をかけ、彼は小首をかしげた。
「す、すみません。他人の空似だったようです。」慌てて取り繕うと、部屋に案内した。これが、木口蒼汰との初めての会話だった。
彼は不思議な雰囲気を持った人だった。見た目は二十台後半で、私よりも少し年上ぐらいだと思うけれど、いつも静かで落ち着いていて老成しすぎているくらいだった。でも、気遣いができる優しい人柄を、寮のみんなが好きだったと思う。時々言うジョークは古臭くて、お世辞にも面白いとは言えなかったけれど。彼は一年ほど入寮して、一年後に退寮して、一年後にまた入寮してと、定期的に入退寮する珍しいパターンの利用者だった。
いつから彼に惹かれていたのだろう?今となっては思い出せない。私は彼を知り、彼は私を知った。それだけで十分だったのではないかと思う。事細かに思い返すのは恥ずかしさもある。ただ一言で表現するのであれば、彼と共に過ごせた時間こそ幸せだったということ。
あの日、一緒に訪れたレストランで、食後の珈琲を飲みながら、何かを言うか言うまいか、葛藤する彼の姿を見るのは本当に可愛くて胸がときめいた。
「僕と結婚してください」そう言って彼は美しくカットされたダイヤのリングを差し出した。
「はい。喜んで」
蒼汰のほっとした顔を見ながら、幸せの絶頂だった。
でも、頂きを過ぎれば、いつか下りがやってくる。結婚してから一年が経過したあの日、彼は絶望した顔で家に帰ってきた。
「次の配属先が決まった。グリーゼ832cのテラフォーミングだ」
「グリーゼ832cって?」
「知らないかもしれないけど、地球から16光年ほど離れたグリーゼ832っていう恒星を回っている惑星なんだ。」
「16光年……。」それは思いがけない配属先だった。蒼汰は宇宙開発戦略庁で国家機密レベルのプロジェクトに携わるメンバーの一員だった。寮を定期的に入退寮していたのは、配属先が地上勤務と宇宙ステーションのローテーションになっていたからだ。酸素もない暗黒の世界に、また彼は旅立つのだろう。
「今回のプロジェクトは何十年がかりになるかもしれない。いつ帰れるかもわからないし、おそらく連絡も機密の都合上難しいと思う。だけど、太陽風の異常がこれから悪化していく地球には移住先が必要だ。決して一朝一夕に解決する問題じゃない。未来のために誰かがやらなければならないことなんだ」
「何十年……。」彼と結婚すると決めた時から、覚悟していたことではあった。超高速宇宙航行とコールドスリープが確立された今となっても、物理的に移動する時間を消し去ることはできない。
「必ず帰ってはくる。でも、いつになるかはわからない。」苦渋の顔だった。誰よりも自分の仕事に誇りを持っている蒼汰だからこそ、この任務を断るつもりはないのだろう。
「わかった。私はこの娘とあなたを待っている」妊娠3ヶ月のお腹を蒼汰は愛おしそうに撫でた。
「今回は輸送任務だから、ほとんどがコールドスリープでの移動になるだろう。だから、また君と年齢が離れてしまうのかな」残酷過ぎる、単純な算数の問題だった。
「そうね。次合う時、私はおばあちゃんになっているかもしれない。でもいいの。あなたと出会えたことに私は感謝しているから。」初めて蒼汰を見たのは高校生になったばかりの頃、祖母の手伝いで寮に行った時だった。そこから見た目では数年しか年を取っていないように見える。寮で働き始めて最初に会った時は驚いたけれど、コールドスリープの弊害として彼に教えてもらってようやく納得がいったものだ。付き合い始めた時、彼にとっては呪いでも、私にとっては祝福に思えていた。でも、結局そんな都合のいい話はなかったということか。私は少しずつ彼に追いつき、素敵な数年を過ごしたが、あとは通り過ぎていくだけなのだ。
その夜、涙が止まらなかった。配属までもうそれほど時間がない。あと何ヶ月、何日、何時間、何分、何秒。共に過ごすことができるのだろう。
「ねぇ、蒼汰。この娘の名前どうしようか?」
「いい名前があるんだ。
『かなた』
奏でるに多いと書いて『奏多』なんてどうかな。僕は遥か彼方にいても、ずっと二人を想っている。見守っている。きっと帰ってくるから。約束だ」
あぁ。奏多。彼にもう一度会うことはできなかったけれど、あなたと過ごせただけで私は幸せだった。彼が見守っているのを感じていた。
ただ、一つだけあなたに謝らないといけないことがある。あなたには彼の事情を話せなかった。守秘義務もあったけれど、それ以上に一生会えないかもしれない父親について、あなたに希望を持たせることを躊躇ってしまったから。ごめんなさい。話す時間はもうないみたい。願わくばあなたが彼に会えますように。
私は少し先に彼方に過ぎ去ってしまうけれど、大丈夫。きっとまた会えるから。
短い間に駆け巡る走馬灯に思いを馳せた後、百合子の鼓動は静かに役割を終えた。
あとがき
使ったワードは、人間の噂、10月、カット、酸素、算数
コメント一覧
コケミドリです。このよくできたストーリーをかいたのは誰でしょう。
ヒヒヒさんかな、爪楊枝さんでしょうか。
抒情的なお話で、何とも言えない読後感が残りました。
主人公の過去の思い出と思いきや、という構成の妙もあり
再読した時の印象がまた違っていて、面白かったです。
にわのはにわです。
丁寧に構築された世界観
そこから見えてくる登場人物たちの心情。
神は細部に宿る、という言葉を思い出しました。
作者は爪楊枝さんと予想します。
母を亡くした主人公の女性。
父は居ない。
主人公は両親おらず一人ぼっち。
やがて、父に似た男性と結婚した主人公。
娘を授かる。
父に似た男性は、宇宙に飛び立ち居なくなる。
主人公の女性は、娘を残して、お亡くなりになる。
娘は一人ぼっちになる。
ループしてる、と思いました。
また、夫婦の愛と言うもの、感じました。
もっとも、夫婦愛って、持続するのは難しく、離れてた方が美化されやすいし、持続しやすくて、良いかも?w
予想は、うーん。
爪でも切ろうかな
<アメジスト・トリトゴメス二世>
うーん、爪楊枝さんの作品がないなぁ。今年は偽装作かなぁ?
と思ったらここに居たのか。構成が見事です。
超短編らしく、そしてギミック作品らしく、久しぶりにこういうの読みました。
勉強させてもらいました。
立方格子です。手塚治虫の火の鳥のような命の価値観を問うているような作品だな、と思いながら読んでいました。
そして、おっと、血がどんどん濃くなってしまうぞ!? と読んでいたら、そういうことではないようで。
葬式に現れた丸メガネの男性と奏多さんはお話しできたのかな、そうだったらいいな、と思います。
未来の出来事なのに、どこか古めかしい懐かしさも感じて、時代の変化まで感じられる描写が秀逸でした。
作者さんは爪楊枝さんですね。