Hora de verano (夏の時間)
むかし、むかし、と言っても、それほど昔のことではなくて、ぼくは高校生で少なくとも今よりはずっと澄んでいた、と思う。
沈黙のなかに浮かび上がる記憶の光り。時間のベールでろ過されるときれいな部分だけが抽出される。きれいでない部分は、意志を持たぬぼやけた抽象画みたいに、足元からすぅと伸びた黒い影となり、佇(たたず)むこととなる。
彼女は、ぼくよりも3つ年上で、製菓工場に勤めていた。
清潔な白い作業服を会社から支給されて、髪の毛が生産ラインに落ちぬよう帽子を深くかぶり、決められた時間、コンベヤーを流れてくるお菓子を黙々と検査している、と彼女は言っていた。 彼女の右手には6本の指があり、その2つの人さし指の親指側ともいえる指の第一間接から上を欠落していた。季節は夏で、彼女が所有する赤い軽自動車の助手席にぼくはすわり、黒いハンドルと、それを握りしめる彼女の右手、指先を白い包帯で巻かれた右手を、じっと見ていた。
「きっと、あなたが思うよりも痛くはなかった。この指の先っぽがとれちゃったときはね。
規則違反なんだけれども、その日はピアスを外し忘れていてね、立ち上がったときに外れちゃったの。
うなるように黒いコンベヤーベルトはカラフルなお菓子を運んでいて、気づくとあたしから逃げるようにピアスが落ちたの。きらきらと輝きながら。
なぜかわからないけれども、絶対に取り戻したい、失いたくない、なんて思った。そして手を伸ばし必死に探した。
そしたらね、この指先が燃えるように熱くなった。心臓のリズムで指先から血液が流れて、廻りから悲鳴が聞こえて、でも、あたしはピアスを探し続けた、馬鹿みたいにね。で、たくさんのお金と夏休みをいただいた、てわけ。まぁ、わるくないでしょう。そう思わない? 」
ぼくは返事に困り果てる。前方の交差点を見つめる彼女の横顔。アクセルを踏みしめたのか、エキゾースト音が暴力的に響いたかと思うと、車はぐんぐん加速されていく。
ちっとも馬鹿みたいだとは思えなかったし、結局、ピアスを見つけることはできたのだろうか。そのことばかりが気になっていたのだ。うまく言葉にできないまま窓を流れる景色が変わり、クラクションの音が遠い汽笛のように聞こえた。
束の間の秋が来て、ひどく寒い冬となり、幾つかの季節が何度もスライドフィルムを入れ替わるように過ぎてゆく。
工場エンジニアとなり彼女とは時間も距離も遠く隔てられた巨大な無人工場で、ひしめくロボットたちが金属の塊をつかみあげ、ごう音をたてながら運び加工する生産ラインをテストしている。でも、ぼくの身体には彼女の唇と這(は)わせた舌先で刻まれた幾つかの記憶が赤いあざとして刻まれたまま。
あざ、その記憶は、ある日突然、予告もなく姿を現し、ぼくは自動的に命令を処理しようと衝動に駆られる。
あたしのきらきらと輝くピアスは、どこへ行ったの
あとがき
在宅作業がずっと続いていて、あぁ、今年も終わりそう、なんて昨年は想像もできませんでした。今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
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