「美奈!!」
私の声に美奈はびくりと肩を震わせる。一拍置いて、彼女はこちらを振り返って睨んできた。じとりとした、ひどく苛立ったような視線。眉根は強く寄せられて、眉間にしわが寄っている。
その視線に、私は怯まない。ずっと一緒にいた私だから、分かる。美奈は無理をしている。何かに耐えるために、無理やり自分の顔を偽っている。元々、美奈はこんな顔をする子じゃなかった。自分の思うように、自由に生きている子だった。たとえ苛立っていたとしても、わざわざ表情で不快さをアピールすることはしない。気に入らないものはとことん無視するか、直接はっきり文句を言うのが、彼女のポリシーだ。もしも私のことが本当に気に入らないのなら、わざわざこんなことをせずに、無視を決め込むはずだ。私は、そう信じていた。
しばらく私のことを睨んだ後、何も言わずに私の横をすり抜けていこうとする美奈に、私は一方的に声をかける。
「私は、美奈のこと待ってるから。いつまでも。」
その言葉に、私の横をすり抜けようとしていた美奈が足を止めた。俯いたまま、ぼそりと呟く。
「─ん、で・・・」
聞き取れなかったので美奈の方に向き直ろうとすると、美奈は突然勢いよく顔を上げた。
久しぶりに正面から見た美奈の表情は、睨んでいるはずなのにどこか泣きそうな、不安定で凄みのあるものだった。その剣幕に驚いている私の肩を思い切り突くと、美奈は勢いよく踵を返して屋上を去っていく。
思いのほか強い力で押された私はバランスを崩し、そのまま尻餅をついた。
美奈が去り際に見せた表情。あれは、彼女の本心な気がする。でも、美奈が何を考えているのか、私にはさっぱり分からなかった。その悔しさに歯噛みする。
「どうして、分からないんだろう。どうして、話してくれないんだろう。あんなに一緒にいたのに・・・。」
座り込んだまま立ち上がれずにいると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ってしまった。私は慌てて制服と本を屋上の日当たりの良い場所に干し、教室まで走る。教室についたのは授業の開始より五分くらい遅れてしまったが、先生はまだ来ていなかった。確か次の授業は、黒川先生の日本史だ。相変わらず時間にルーズな先生に感謝しつつ、汗をぬぐいながら席につく。
先生を待っている間、ちらちらと周囲が私に視線を向けていることに気づいた。三十一人が同じ制服を纏っている空間の中で、一人だけジャージを着ているのはひどく目立つ。統一された空間に、一つだけ紛れ込んだ異物、といったところか。もしかしたら、もう昼休みの校庭で起こった事件を聞きつけた人もいるかもしれない。
ちょうど日本史の教科書とノートを机の上に用意し終わったあたりで、ようやく黒川先生が教室に姿を現した。慌てたような口ぶりで遅れたことを謝罪しているが、額には汗一つかいていないので、走ってきたわけではなさそうだ。しばらく先生の言い訳を聞いてから、いつも通りの授業が始まる。しかし、その内容は私の頭には全く頭に入ってこない。私の意識は、まだあの屋上に残っていた。
美奈の様子がおかしくなったのは、一か月前のことだった。
いつものように屋上で過ごしていると、突然美奈は言った。
「ねえどうしよう遙。私、気づいちゃった。」
「んー、何に?」
貯水タンクの横に腰かけた私の気のない返事に、美奈が答える。
「私が生きていることを私自身が認められないのなら、それって生きている意味がないってことにならない?」
唐突な問いに、私は虚を突かれた。美奈は時折そういった突拍子もない話をすることがある。私は戸惑いつつも、ぼんやりと考えながら返した。
「ううん・・・そうかもしれない。でも、私は美奈がいないと嫌だよ。それだけで、生きてる意味にはなるんじゃない?私にとっての、かもしれないけど。」
その言葉に美奈はしばらく沈黙した。何気ない言葉のつもりだったのに、そんな真剣に考えられると困ってしまう。しばらくして、美奈は口を開いた。
「例えば、さ。私がここから飛び降りるって言ったら、遙は止める?」
「そりゃあ、止めるよ。美奈が死んじゃうのなんてやだもん。」
「そっか、そうだよね。」
その時、夕焼けの空にあかとんぼのメロディがゆっくりと鳴り響いた。私たちにとっては馴染みの深い、十七時を知らせる町の放送だ。
「もうこんな時間。そろそろ帰ろっか。」
私はどうして美奈が突然そんなことを聞いたのか、まだ引っかかるものがあったが、わざわざ話を蒸し返すことはしなかった。
また明日、時間のある時にでもゆっくり聞けばいいかな、と思って。
その明日は、来なかったのだけれど。
気がつくと、もう授業が終わっていた。話を聞くどころか、ノートも何もとっていない。慌てて黒板に残された板書を書き写そうとしていると、そんな私に気づいたのか、黒川先生が声をかけてきた。
「今野、お前最近どうした。大丈夫か。」
ざっくりとした問いかけだが、おそらく今日の授業の様子と、最近の遅刻の多さと、今の服装、すべてについてだろう。遅刻に関しては先生に言われたくないが、基本的に黒川先生は生徒思いの良い先生だ。ちょっと適当で、教師なのにサボリ癖があったりするけれど、そんな少し隙のあるところが完璧な人よりもずっと好感が持てる。気さくで面倒見が良くて、背もすらっと高く、顔もそこそこ。人気の出る男性教師の典型だ。しかし、私が彼を良い先生だと評するのは、そこが理由ではない。
黒川先生は、生徒同士の問題には無闇に首を突っ込んできたりはしない。大人の力が必要だと思ったときに、初めて声をかけてくれる。適切な距離感と、子供の世界にとって自分たち大人がどういう存在であるかを理解している、そんなところが私は好きだった。
つまり、現時点で私達の問題は、既に大人の力がないと解決できないと判断されてしまったということだ。しかし、そういうわけにはいかなかった。これは私と美奈の問題だ。他の人が介入できるものじゃない。少しでも触れた途端、膨れ上がった何かが、破裂してしまうだろう。
私は曖昧に笑って、
「大丈夫です。ちょっと、お昼休みに制服が濡れてしまって。帰るまでに乾くかなって心配してたら、ぼーっとしてしまいました。」
と返しておいた。
その言葉を額面通りに受け取ってはいないだろうが、こちらにまだ話す気がないのは伝わったようだ。何かあったら先生に言っても良いからな、と心配そうに言い置いて去っていった。
本当に、物わかりの良い人だと思う。
心配をかけてしまっていることを素直に申し訳なく思いながら、そろそろ白黒つけなければならないな、と思う。しかし、その方法はどうしても思いつかなかった。私にできることは、一体何があるんだろうか。
そのことばかりを考えていたら、午後の授業はどれも頭に入ってこなかった。授業をしている空間に座ってはいるが、私の心はずっと別の場所にあった。
そうやって一日の授業を無為に過ごしてしまった後、私は下校前の掃除をしながら、あの屋上を見上げていた。校庭の花壇の前から見上げる屋上はひどく遠く、屋上から見下ろす花壇はひどく小さかったことを思い出す。花壇の周りに散らばる小さな落ち葉を掃きながら、私はあの屋上での日々が、ひどく遠い昔のことであるように感じていた。
美奈が屋上に来なくなって数日。私は彼女とずっと言葉を交わせずにいた。
最後に交わしたあの言葉がよみがえる。美奈は何かに悩んでいる、ということは私でもなんとなくわかっていた。でも、肝心なことは何も分からない。だから、とにかく話をしたかった。
しかし、心配になって声をかけるも、美奈は眉根を寄せたまま顔を背けるばかり。ろくに会話もしないうちに、どこかへ行ってしまう。
何度目かの声掛けにも答えてくれず、無言で去っていくその背中に、私は一方的に声をかけた。
「つらいことがあって、今は話したくないのなら、それでもいいよ。でも、美奈がもしも誰かに話したくなったら、私に言ってね。私はいつまでも、美奈の味方だから。」
その言葉に、美奈は足を止めた。ようやく言葉が届いたのか、と思ったのもつかの間、私の言葉を振り切るように、勢いよく走り去ってしまった。
その翌日からだった。私への攻撃が始まったのは。
続く
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