「あんたなんか、死んじゃえ」(2)

  • 超短編 3,224文字
  • シリーズ

  • 著者: 1: 鈴白 凪
  •  全身ずぶ濡れのまま呆然と立ち尽くしていると、校庭にまばらにいた生徒たちの、何事かという視線が、痛いほどに突き刺さってきた。いたたまれなくなった私は、
    「…ちょっと遙!ひどいじゃん!」
     となるべく冗談っぽく聞こえるように笑いながら、特別校舎の入り口に走っていった。
     そのままずぶぬれになってしまったスニーカーを脱いで、下駄箱から一番近くにある女子トイレに身を滑り込ませた。ぽたぽたと滴る滴を呆然と眺めながら、トイレに座り込む。抱えるようにして持っていた小説は、それでも水でふやけてひどいことになってしまっていた。もう読めなくなっているかもしれない。何より、また汚してしまったことを、司書さんに言うのがつらかった。次は気をつける、って言ったばかりなのに。せっかく私のために取っておいてくれたのに。
     彼女が私の隣からいなくなってからというもの、私の心の支えは本だった。本を読んでいれば、嫌なことは忘れられる。考えないでいられる。私は物語の中に入り込んで、その世界を傍観していられる。その間が私にとって唯一の安息だった。
     それを狙っているのか、いないのか。何にしても、私自身を狙う今までの攻撃より、とても有効であることは否定できないだろう。
     ぽたぽたと流れる滴は、なかなか止まらない。流れているものは、バケツにかけられた水だけではないようだった。
     しかし、いつまでもこうしてはいられない。髪や制服の裾をぎゅっと絞って、雫が落ちないように振り払う。とりあえず、このずぶぬれになってしまった制服を脱いで、ジャージに着替えよう。もう一度、しっかりと貝殻を閉じるのだ。
     ジャージは部室棟に取りに行くとして、この濡れた制服をどうするか。出来れば日当たりの良いところに干して、帰るまでには乾かしたい。ジャージで家に帰ったら、親に何事かと思われるし、きっと下校中も悪目立ちしてしまうだろう。
     しかし、当然だが教室に干すわけにもいかない。校庭のような人の往来が激しい場所も論外だろう。トイレや部室棟の隅にある物置は、人気こそ少ないが日当たりも良くないので、乾くとも思えない。
     そこでふと思いついたのが、屋上だった。




     私たちの中学では、基本的に屋上には入れないことになっている。屋上に続く階段はあるが、屋上に出るための扉の鍵は閉められ、学生は借りることができないのだ。文化祭のようなイベントの時だけ開放されることもあるが、年に一度あるかないか、といった程度。だから屋上階段の先にある小さな空間は、文化祭の時だけ出番のある生徒会の旗や、壊れた机や椅子たちが、埃まみれになって置かれているただの物置と化していた。
    「うわあ、なにここ。汚いね。」
     椅子や机に積もった埃を見て私がそう言うと、
    「探検しようって言ったのは遙でしょ。」
     隣で机の埃を払いながら、彼女が言った。
     放課後。誰もいなくなった校舎の中で、私たちは探検をしていた。特に理由があるわけではないけれど、この無駄に広い学校のどこかには、誰も行かないような秘密の場所があるのではないかと思ったのだ。だから私は彼女に、校舎を探検してみよう、と持ち掛けてみた。最初はめんどくさいと取り合ってくれなかった彼女だが、二人だけの秘密の場所という言葉につられて、付き合ってくれた。
     特別棟のすみにある謎の空き教室、人通りの少ない部室棟の非常階段、何故か教室も何もない途切れた廊下。探してみると本当に色々な場所があって、さすが無駄に広いだけはある、と感心した。しかしその中でも特に目を引いたのが、屋上階段の上の物置だった。
    「物がいっぱいで、なんだか秘密基地みたい。」
     そう私が言うと、彼女が返す。
    「埃まみれで汚いけどね。」
    「汚いのは、誰も来てない証ってことで。」
    「確かに。それじゃ、綺麗にして私たちが来てる証にしちゃおっか。」
     そう言って、私たちはくすくす笑った。
     それ以来、私たちはここの机を使ったり、埃を掃除してきれいにしたりして、放課後や休み時間に定期的にくるようになった。
     特に何をするわけでもなく、ただ教室と同じように他愛もない話をするだけ。でも、それが二人だけの秘密の場所、というだけで、なんだかとてもわくわくするのだった。
     この秘密基地がそれだけではないことに気付いたのは、一か月くらい通い詰めてからだった。最初に、彼女が窓の秘密に気づいたのだ。
    「ねえ、暑くない?」
    「うん、暑いね。」
     暖かい季節になってくると、日差しがよく差し込むこの秘密基地はとても暑くなる。しかも風が全く通らないので、熱気が立ち込めるサウナ状態となってしまうのだ。
    「秋冬限定にする?この場所に来るの。私もう限界。」
    「あ、窓開けよう、窓。そしたらちょっとはマシになるはず。」
     そう言って彼女は窓に手をかけた。窓は教室のものと同じなので、内側からならば鍵をひねれば普通にあけることができるはずだった。しかし、鍵を開けても窓は何かに引っかかったように動かない。
    「あれー?おっかしいな。何で開かないんだろ。」
    「どしたの?」
     私が駆け寄ると、彼女は困ったように言った。
    「鍵は開けたはずなのに、窓が開かないんだよね。」
    「あれ、ほんとだ。」
     二人して首をかしげる。しばらくして彼女が何か気づいて声をあげた。
    「あ、ねえ遙、なんかある。」
    「え、どこ?」
    「そこそこ。そのサッシのとこ。」
     よく見てみると、サッシの部分に小さな穴があけられ、ネジが埋め込まれていた。これが取っ掛かりとなって、窓が開かないようになっていたのだ。
    「これが引っかかってたのかー。」
     私は刺さっていたネジを指で回してみた。ネジは緩く刺さっているだけで、指で回すだけで簡単に外すことができた。
    「これで開くかな。」
    「じゃあ、せーの、で開けよっか。」
     せーの、と掛け声をして、二人で一緒に窓を引くと、ギギ、と鈍い音がして、何年もの間閉まり続けていただろう窓が、開いた。すうっ、と熱気の立ち込める空間に涼しい空気が吹き込んでくるのと同時に、私たちは窓を開けた先に屋上の足場が広がっていることに気が付いたのだった。
     屋上に出入りできるのは扉だけではない。窓が曇りガラスで外が見えない構造になっていたせいで、そんな 当たり前のことに二人とも気づかなかったのだ。私はたまらなくなって、彼女を見た。彼女も、私を見て同じ表情をしていた。
     楽しくてたまらない、といった表情を。
    「せーのっ」
     確認するまでもなく私たちの声は揃って、同時に屋上に飛び出した。二人の足が屋上の地面を同時につかんだ時、私たちはまた顔を見合わせて、笑った。
    人が立ち入ることを想定していないからか、屋上には柵はなく、その広々とした開放感と少し危険な香りに、私たちは魅入られたのだった。
    「あ、私ここがいいな。落ち着く。」
     貯水タンクの横に腰かけて私が言うと、
    「ほんと遙って物影とかすみっことか好きだよね。私はこれくらい開放的な方が好きだなあ。」
     と言いながら彼女は屋上のへりに腰かけた。そこはそのまま二人の定位置になり、グランドで部活動をしている人の姿を見て、あれは一組の誰だ先輩の誰だと話したり、日が沈むのをぼんやり眺めたり、空に浮かぶ雲の形が何に見えるか言い合ったりした。
     あの屋上は、他の誰も知らない、私と彼女だけの特別な場所なのだ。




     あそこなら、きっと誰にも見咎められることなく制服を干すことができるはずだ。そう思って、本校舎の最上階へと急ぐ。そろそろ、昼休みも終わってしまう時間だ。昼休みの間に干すことができれば、きっと帰りまでには乾くだろう。
     屋上階段を登り切ると、いつもは閉まっている窓の鍵が開いていて、ネジも外されていることに気がついた。慌てて窓を開けると、あの頃と同じように屋上のへりに座る彼女の姿を見えた。
     彼女は長い黒髪を風になびかせながら、遠くを眺めていた。その張り詰めた横顔を見た途端、嫌な予感がした。
    「美奈!」
     たまらず私は声をかける。この名前を口にするのは、もうずいぶんと久しぶりのことだった。
    続く

    【投稿者: 1: 鈴白 凪】

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