「あんたなんか、死んじゃえ」(1)

  • 超短編 3,674文字
  • シリーズ

  • 著者: 1: 鈴白 凪
  •  下駄箱を開けると、少し黒ずんだ上履きの中に大きな蜘蛛の死骸が入っていた。私の拳くらいはあるだろうか。ある程度の覚悟はしていたので表情には出さなかったが、さすがにこれには驚く。どうやってこの死骸を上履きに入れたのだろうか。自分で蜘蛛を見つけて殺したのだろうか。それとも、見つけた死骸をわざわざ運んだのだろうか。いずれにしても、私の理解の範疇を超えている。
     今脱いだばかりのスニーカーをもう一度履き直し、極力中身を見ないように死骸の入った上履きを外に運ぶ。そのまま、中身だけを校庭の花壇に捨てた。哀れなこの蜘蛛も、きっと綺麗な花たちの養分になるだろう、と適当なことを思いながら、下駄箱へと戻る。死骸が入っていた上履きをそのまま履くのはさすがに気持ちが悪いので、掃除用の雑巾で軽く拭うことにした。気休め程度だが、何もしないよりマシだろう。死骸が潰れて体液まみれ、なんて悲惨なことになっていなかったのは、せめてもの情けだろうか。あるいは、さすがにそこまでは気持ちが悪くてできなかったか。
     上履きを拭い終わると、きーんこーんかーんこーん、と間延びしたチャイムが校舎に鳴り響いた。どうやら今日も遅刻になってしまいそうだ。最近遅刻してばかりで、通信簿の成績が若干心配になる。かといって今更焦ることもせず、私はゆっくりと上履きに履き替え、人気のない廊下を歩いて教室に向かった。
     私の通っている境野中学は、山の上にぽつんと立っている。そのためか学校の敷地は広く、教室や職員室のある本校舎と、理科室や音楽室のある特別校舎、部活動のための部室棟といった形で、三つの建物で成り立っている。本校舎の一階には一年生の教室が、二階には二年生、三階には三年生の教室がある。年功序列に従うのならば、年長者こそ下駄箱からの移動距離が短い下の階になるべきではないのか、と思ったりもするが、そんなことを言っても長年定まってしまっている風習は変わりようがない。二年生である私は、階段を一つ上がって二階の端にある自分の教室に向かった。
     ガラリ、と教室の扉を開ける音が教室に響くと、三十の視線が一斉に私の方を見た。既にチャイムが鳴っているので全員席についていて、本を手に持っている。HR前の朝読書の時間だ。しかし、本の後ろに漫画を隠していたり、机の上においたスマホを本で隠していたりする人の方が多い。読んでいる人は半分以下だろう。
     担任の黒川先生は、教室にいなかった。いつもだったらこの時間には、チャイムが鳴るまでに生徒が着席しているかどうかチェックしているはずだが。これなら今日は遅刻扱いにはならなくてすみそうだ、と私は心の中で先生のサボリ癖に感謝する。
     クラスメイトたちの退屈そうな視線の合間をくぐり抜けて、自分の席につく。鞄を膝の上に置き、今日読む本を取り出そうとして、そういえば昨日は本を持って帰らずに、机の中に置いて帰ったんだった、と気づいた。私はせっかく学校が用意してくれた読書のための時間を無下にするつもりは全くない。誰にも邪魔されず、静かに本が読めるこの時間が、私は大好きだった。
     机の中から読みかけの小説を取り出す。昨日栞を挟んだところは、確かもう物語のクライマックスに差し掛かっていたはずだ。主人公の隣に突然現れた、死んだはずの兄。彼は果たして幽霊なのか、どうしてそこにいるのか。そして、主人公の過去に一体何があったのか、その真相が語られる手前で時間が来てしまった気がする。
     物語の結末に思いを馳せながら、栞を外して本を開く。すると、その中は赤い色で埋め尽くされていた。活字の上にクレヨンのようなものがびっしりと、力任せに塗りたくられている。赤い色に侵略されて、元々本の中に住んでいた文字たちはその姿を消してしまっていた。
     一度目を瞑り、周囲に聞こえないように、小さくため息をつく。
     これ、図書館の本なんだけどな。公用物には手を出さないと思っていたけれど、甘かったようだ。これからは借りた本も、おそらく教科書も、全部家に持って帰らなければならないらしい。なかなか面倒だった。
    読むものがなくなってしまったので、仕方なく窓の外を見やる。と、ちょうどこちらを見ていたらしいクラスメイトとばったり視線が合った。慌てて視線を逸らす彼女の様子を見て、流石に気づき始めているのかもしれないな、と実感する。まあ、これだけ長いこと続けていれば、別のクラスならともかく、同じクラスの人なら気づくだろう。特に女の子は、こういった狭い空間での人間関係には敏感だ。
     さて、あとどれくらいかな。真っ赤になってしまった本をゆっくりと閉じ、私はもう一度、小さくため息をついた。



     私への小さな攻撃が始まってから、もう一か月近く経つ。その行為は、日増しに悪質なものになってきていた。最初は、机の上に落書きがされていたり、消しゴムやシャープペンがなくなったり、そんな程度だった。それが段々、筆箱がなくなり、ひいてはカバンごとなくなるといったようにエスカレートしていった。それは、一つ一つの攻撃に対して一向に態度を変えようとしない私への、焦りにも見えた。
     でも、私だって全然平気なわけではない。貝殻を閉じているだけだ。今は泣いても叫んでも、何も変わらない。それがわかっているから、じっと耐え忍ぶことに決めたのだ。目の前の捕食者が、通り過ぎるまで。



     昼休みに図書館に行った。受付で司書さんに頭を下げ、借りていた本を汚してしまったので弁償します、と謝った。この司書さんは、図書館の常連である私とは顔見知りだ。よく私の好きな作家の本が入荷すると、こっそりと取っておいて、私が来たら真っ先に貸してくれる。とても良い人だ。今回借りた本も、そうやって司書さんが特別に取っておいてくれたものだった。
     私の報告を受けて、司書さんは怒るでもなく穏やかに言った。
    「あらら。でも汚れ具合を見て新しい本を購入するかどうか決めるから、無理しなくても良いのよ。」
     しかし、真っ赤になってしまった本を見せるわけにもいかない。私は頭を下げながら、
    「いえ、弁償します。すみません。」
     と繰り返しておいた。
    「そう。じゃあ、次は気をつけてね。」
     司書さんの言葉に、私は黙って頷く。次は、気をつける。気をつけよう。大切な本を汚してしまうのは、とても心苦しい。
     唇噛んで黙ってしまった私を見て、何かを察したのか、司書さんはちょっと待ってね、と断って席を外した。なんだろうと思ったら、
    「新刊が出たのよ。あなたこの作家さん好きだったでしょ。」
     と、まだ真新しい小説を手渡してくれた。もう貸出の手続きもしちゃった、と悪戯っぽく笑いながら。その心遣いに何故だか涙が出そうになって、司書さんの顔をまっすぐ見ることができず、ありがとうございます、と頭を深く下げて、俯いたままの姿勢で図書館を出た。
     外に出ると、カンカン照りの日差しが俯いている私の頭に降り注いできた。思わず空を見上げると、雲一つない真っ青な空に太陽が爛々と輝いている。これでもまだ六月だ。これからさらに暑くなるのかと思うと、憂鬱になる。ため息をついてから私は本校舎に向かって歩き出した。
     この中学では、図書室ではなく図書館がある。その名のとおり、校舎とは別に一つの建物として敷地内に存在しているのだ。しかし、不便なことに屋根続きの通路が存在しない。つまり図書館にいくためには、いちいち昇降口で靴に履き替えて、外の日差しを浴びて向かわなければならない。図書館を頻繁に利用するような、インドア派の人にとっては、なかなか苦痛なのではないだろうか。少し矛盾しているようにも思う。 偏見かもしれないが、少なくとも私はそう思っている。
     じわりと滲む汗に耐え切れず、本校舎と図書館の間を覆うようにして立っている特別校舎が作る影の中に、私は身を滑らせる。おかげで日差しの暑さは大分マシになった。掌に滲んだ汗で貸してもらった小説が汚れてしまわないように、本を抱きかかえるように持ち直すと、ふと雨の日に、こうやって本を抱きかかえるようにして守りながら、本校舎まで走っていたことを思い出した。急に雨が降ったりして傘を持っていないと、濡れながら図書館に行かなければならないし、帰りはせっかく借りた本が雨で濡れてしまうのだ。本の最適な保管のためにも、この立地は間違っているのではないかと私は常々思っている。少なくとも、屋根つきの通路を作るべきだろう。
     そんなことを考えていたら、突然私の上に水の塊が落ちてきた。
     六月とはいえ今日は雨の予報ではなかったし、そもそも空は真っ青に澄んだまま雲一つない。まさか私の上だけにとおり雨が降るなんてことはないだろう。
     混乱しながら水が落ちてきたであろう場所を見上げると、青いバケツがガコン、と変な音をさせながら私の横に落ちてきた。バケツが落ちてきたのは、ちょうど私の真横にある特別校舎二階の理科室からだ。目を凝らすと、窓のカーテンの隙間から、長い黒髪が翻って去っていくところがちらりと見えた。その黒髪に、私はひどく見覚えのあるような気がした。
    続く

    【投稿者: 1: 鈴白 凪】

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