自転車にまたがったまま信号待ちをしていると、僕の後ろからやってきた自転車が赤信号の横断歩道を横切っていった。
信号無視だ。
ブレーキをかける様子も、あたりを見渡す様子もなく、隣で停まっている僕がいるにも関わらず、当然のように彼は道を渡っていった。
確かに、この辺りは車通りが多いほうではない。そのくせ信号の数だけはやたらと多いので、信号無視をしてしまいたくなる気持ちも分からないこともない。
短めの黒髪に、黒い学ラン。僕の高校の制服はブレザーなので、他校の生徒だろう。時間を考えると、おそらく僕と同じ部活帰りに違いない。線の細そうな体つきを見るに、運動部ではなさそうだ。
彼の背中は横断歩道の手前で停止している僕との距離をどんどん広げていって、やがて見えなくなった。
それを見送りながら、僕は信号の色が変わるのを待つ。例え車が来ることがないと分かっていても、赤信号の道を渡ることはしない。しない、というより、できないのだ。友人には生真面目な奴だと笑われることが多いが、僕は昔から規則を破るということがどうにも苦手だった。
決められたことは守るべき。そう思ってずっと生きてきた。
破るほどの意思の強さが、ないだけなのかもしれないが
青信号に変わるのを待ってから、僕の自転車は発進する。この通りは長い長い上り坂だ。まっすぐ進み続ければ隣のさらに隣町まで行けるくらい、ずっと続いている。
上り坂で一度停止してしまうと、再び漕ぎ出すのにかなりのエネルギーを要する。重たいペダルをぐっと踏み込むと、僕の乗っている黒い自転車は、傾斜に逆らってぐんぐんスピードを上げていった。
中学も高校もずっと自転車で坂道を登っていたので、もうこの程度の上り坂は慣れたものだ。そのせいか、僕はかなり漕ぐのが早い。特にこれといった取り柄もない僕にとって、それがちょっとした自慢だった。
緩やかに続く長い上り坂をスピードを落とさず走り続けていると、なにやら見覚えのある黒色の背中が見えてきた。
この一本道では、途中から歩道に人が増えることはまずない。となると、あの背中はきっと先ほど信号無視をしていた彼のものだろう。
仮に、今から無視太郎君と呼ぶことにしよう。
そんなあだ名を心の中でつけているうちにも、遠くに見えていた無視太郎君の背中はぐんぐんと近づいていく。そのまま横に並んだかと思うと、無視太郎君はあっという間に僕の後方に消えてしまった。
・・・遅い。
停まっているときは気づかなかったが、この無視太郎君、どうやらものすごく漕ぐのが遅い。下手したら、光るタスキをつけてジョギングしているおじいちゃんにすら抜かれてしまうのではないだろうか。
その光景を想像してなんだか笑ってしまいそうになり、慌ててこらえる。人の不得手を馬鹿にするのは褒められたことではない。緩みかけた頬を抑え、誤魔化すように僕は自転車のスピードを上げる。
信号の間隔が狭いこともあり、あっという間に次の信号に辿り着いてしまった。
点灯しているのは再び赤色。かなりのスピードを出していたが、僕は律儀に一時停止する。
これが車だったらガソリンの無駄遣いになるのかもしれないが、生憎と自転車のエネルギーは僕自身の体力だ。決して体力に自信があるとはいえないが、このくらいのロスを嫌がるほど衰えてはいない。
しかし、どうやら彼はその限りではないようだった。
停止している僕の隣をすり抜けて、再び赤信号を平然と渡っていく無視太郎君の背中を呆れ混じりに眺めながら、僕はそんなことを思った。
たまたま車が来てなかったから渡ってしまえ、なんてかわいいものではない。彼はきっと、どうせ車なんて来ないだろう、と最初から信号を見ていないのだ。
かもしれない運転とはなんたるかを説いてやりたい気持ちに駆られながら、僕は青信号になった横断歩道を渡る。憤然とした気持ちになりかけたが、まあ、自分は自分、他人は他人だ。もしも無視太郎君が信号無視をしなくなってしまったら、彼は無視太郎君ではなくなってしまうわけだし。
よくわからない理屈で溜飲を下げ、僕は少し遅れてペダルを踏み込む。
ここから坂が少し急になる。ペダルの重たさが先ほどよりもキツくなったので、僕はサドルから腰を浮かせて、立ち漕ぎの姿勢を作った。
体重を乗せて思いっきり漕ぐことのできるこの姿勢はとても楽だ。母親からは、落ち着きがない漕ぎ方だと窘められることもあるが、これが一番楽に漕げるのだから仕方がない。
それに、今はだれが見ているわけでもない。人影のない夜の道を見渡しながら、そんなことを思う。
しかし、よく見てみると僕の正面には人の姿が見えていた。言わずもがな、赤い自転車を必死に漕ぐ無視太郎君だ。
自転車、赤色なんだな。そんなことを思っているうちに、遠くに見えていた赤い自転車は僕の黒い自転車と並んでいた。
僕が立ち漕ぎをしているとはいえ、本当に遅い。
ちらりとすれ違いざまに彼の方を見ると、なんだか悔しそうな顔をしているように見えた。そのまま後ろに消えていく彼の姿に、今度こそ僕は笑ってしまう。
二回も信号無視をしたくせに、律儀に信号を守った僕にいとも簡単に抜かされるなんて、なんだかひどく滑稽だった。
人の不得手を馬鹿にするのは褒められたことではないが、世の中には因果応報という言葉があるのだ。
僕は口元のにやつきを今度こそ隠さず、後方に消えてしまったであろう無視太郎君に嘲笑を残す。
心のどこかに、ざまあみろ、という気持ちがあった。いつだってルールを破る人が得をして、律儀に守っている人が憂き目を見る。
なら、一体何の為のルールなのか。破れないルールの前に、僕はそんな憤りを感じていた。
どうだ、ルールを破っても僕のほうが速いぞ。
悔しそうな彼の表情に、そんな優越感を感じていた。その心情が表れるように、僕の自転車はぐんぐんとスピードを上げていく。
僕も少しムキになりすぎているのかもしれない。
調子に乗ってスピードを上げすぎたかな、と思い前を見ると、再びの赤信号。この後の展開がなんとなく予想できて、もう僕の口元はにやけてしまっていた。
案の定、後ろからペダルを漕ぐ音が聞こえ、無視太郎君が赤信号を通り過ぎる。
青信号になってから僕が追い抜く。
そんな奇妙な追いかけっこを何度か繰り返すうちに、長い長い坂道はまるで僕ら二人のレースコースになったようだった。
数十分に亘るレースの後、再び現れた赤信号。というか、ここまで赤信号に引っかかっているのもある意味奇跡と言えるかもしれない。
しかし、今度の赤信号で僕は停まらなかった。
もちろん、信号無視をしたわけではない。僕の家は、この交差点を右に曲がった先にあるのだ。
横断歩道を渡ることなく、右折をした僕の自転車は、速度を落とすことなく自宅へと向かっていく。
振り返ることはしなかったが、おそらく彼はまた信号無視をしてあの長い坂の先へ行ったのだろう。もしかすると、彼はまだ後ろ姿の見えない僕と戦っているのだろうか。先に行ってしまったと思い込んで僕を追いかけ、信号無視を繰り返しているのだろうか。
そんなことを考えると、なんだか少し愉快な気分だった。
坂を下るとそこには赤信号。僕はきっちりと停止し、青に変わるのを待って漕ぎ出した。
翌朝、テレビを見ると事故のニュースが流れていた。
赤信号にも関わらず道を横断していた高校生に、トラックが突っ込んだらしい。
現場の映像には、轢かれた高校生のものと思われるひしゃげた赤い自転車が映っていた。
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