旦那様は暴君と呼ばれていた。
* * *
「……要らん。退がれ」
「し、失礼しました!」
新人のメイドが慌てて部屋を出てきた。
また旦那様から追い出されたのだろう。持って行ったはずのお茶はまだ彼女の手にあり、茶菓子は綺麗なままであった。
「あっ、ランカさん!えっと、これは……」
「いいのよ、リズ。あなたの言わんとしていることは分かっているから。と言うより、旦那様のアレがいつもの事なのよ。」
あの捻くれ者は自らの身内すら信用していない。一代で莫大な財を成した天才は、その大きさ故に家族すら自分を、厳密には自分の富を狙っているのだと考えている。事実家庭環境はお世辞にも良いとは言えず、御子息も御令嬢も本当なら顔も見たくないと愚痴をこぼすほどだ。
気に入らないものへの徹底した拒絶から、屋敷の内外問わず暴君と呼ばれていた。
「私、何か悪いことをしたでしょうか…」
リズは自分の立ち居振る舞いに不安があったのだろう。髪の毛の本数まで数え始める勢いで自分をチェックし始めた。さすがの旦那様もそこまでは見ていないと思うのだが。
「あなたは何も悪くないわ。旦那様の警戒心が強いだけよ。彼はたとえ敵ではないと分かっていても罠をうたがってしまうの」
「…ランカさんは、旦那様のことをよくご存知なんですね」
リズは純粋に尊敬しているような眼差しを向けてきているが、そんな大したモノではないといなす。
「普段の態度から推測しているだけよ。ほら、私推理小説とか好きだから」
そう適当にお茶を濁してリズに次の仕事を与え、話を切り上げた。
とはいえ、私が新人として入ってから6年、旦那様についていつも推測を重ねてきたことは嘘ではない。
「失礼します、旦那様。麦茶をお持ちしました」
「…要らん。退がれ」
旦那様は窓の向こうを眺めながら、こちらをチラリとも見ずにそう言った。
「…では、これは私がいただきます」
それを聞いた旦那様が目を大きく見開いて振り向く。
「あら、本物の旦那様でしたか」
「…偽物かも知れないとでも思っていたのか?」
「お返事が一定のものでしたので。多少聡明で口の固い者ならば影武者は務まります」
その一言に旦那様が呆れた表情になったのを見てとった。
その反応を見つつ、自分の手元にあった麦茶を口にする。
「そんな不敬な態度をとって、この私が怖くないのか?」
「何を畏れる必要がありましょうか。私は修道女ではなくメイドでございます」
この返しに一度目を丸くされたが、口もとが緩み、すぐに話を続けた。
「フッ、違いない。それで、茶を運ぶ貴様が飲まれない麦茶を持ってどうしてここに留まる?」
「目の前でお茶を飲み干し、次を淹れてご覧に入れれば、毒が入っていないこともご理解いただけると思いまして」
私は手にある麦茶を飲み干し、他のカップを取り出して旦那様の目の前で淹れてみせた。
「はっはっはっ!貴様が飲んだ茶と今淹れたものが同じであるとは証明できまい。それに、毒があるのは何も茶のみとは限らぬ。カップの口に塗っても身体に入るのは同じだぞ?」
「証明の必要は無いかと。この暑さの中、わざわざ毒を出さずとも、むしろこれを一切お持ちしなければ人間は死ぬのですから」
そう言って新しい麦茶を注ぎ、旦那様の前に置く。
クッ、と吹き出すように笑った後、旦那様は一気に麦茶を飲み干した。
「気に入った。もう一杯貰おうか」
「どうぞ、旦那様」
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