しゃりん、と鈴の音がひとつ。
ある男がいた。髪は伸び、皮膚は裂け、非道い匂いを漂わせていた。足取りはおぼつかず、腕はバランスを取るために左右に揺れていた。
「おい」 ふいに声がして、男は足元に目をやった。目は爛々と輝き続けており、口はヌラリとして開いていた。
「おい、と言っている」
男は応える。「なんだ」
「お前じゃない。お前の節々に呼びかけている」
「なんだそれは」
男は声の出所を探そうと、腰の巾着を探り、胸のすっからかんの財布を探り、仕舞いには草履の網の目まで探り当てようと、踊り回ったものの、とうとうその声の主を見つけることが出来なかった。
「なんだ、お前も男なら、正々堂々と姿を見せてみろ。もしもお前がその野太い声で女子供なら、黙って顔色でもうかがってれば良いんだ」 男が腹立たしげにそう言うと、遠目に男を見ていた女共が、子共を隠し、一斉に長屋の戸を閉めた。
通りには男しかいなかった。男は辺りを見回し、不意に本当に薄気味悪い心持ちになって、
「なあ、“おい”よ」と、声の持ち主を連れにしようとする。
「お前は今日まで散々っぱら、俺たちに迷惑をかけてきた」”おい”は応える。
「俺たちって何さ。確かに、俺は貧乏で、嫁っこにも愛想尽かされるし、ええところはねぇ。けどな、人様には迷惑かけちゃいけないって、母ちゃんに、そう育てられてきた。それは、ない」
男は、肋骨が浮かび上がる胸を張って見せた。誰一人、その姿を見てはいなかった。
「俺たちは、そのきれい事をやりがいにやってきた。それぞれが考えた。効率の良い動かし方を。怪我をしない方法を、怪我を早く治す方法を」
ははーん、男には次第に今起こっている事のあらましが読めてきた。俺のこき使っている四肢たちが、訴えてきているというわけだ。そんなものは、自分の感情から生まれる単なる幻惑、気の弱さから生まれるって魂胆だ。。
男は強気に言い放つ。「考えなくて良いんだよ。考えるのはこっちの仕事だ。それぞれが考えなしに動いたんじゃあ、船は山に登っちまうさ!」
「ああ、そうかい」 しゃりん、と鈴の音がひとつ、真っ昼間の長屋通りの静けさに響いた。
男は恐ろしい感じがして、一歩二歩と後退る。
「あんたが考えないからだ。あんたが全部悪いんだ」 右手が言って、
「うるさいな」 左手が頬を張った。左右の足が、鈴の音を鳴らす浪人風情に一歩二歩と身体を近づけていく。
「おい、よせ」 ヌラリと開いた口がカサカサとしぼんでいく。
振りかぶった刀は、男から四肢を解放していく。それぞれに異様な細い半透明の脚が生え、その場で飛び回る。
「やったーー! 自由だー!!」
浪人は、無表情にしばらくそれを見てから、
「それで、どうやって生きていくつもりだ、お主達は・・・」そう問うた。
「さあね。とりあえず、生きていれば、生きているのさ。求められてもいないことを考え続けることは、何よりも苦痛だった。考えないで、男の四肢として生きるのも命かと思った」
浪人は、話の相手、切り落とされた手首を、その止めどなく流れる血を追いながら話を聞いていた。
「だけども、それじゃあ、生まれてきた意味が分からない」
手首はそう言って、ぱたりと倒れた。
足が生え、ばらばらになった男の肉体は散らばっていく。脳が心臓を引き連れて、どこかへ飛びたとうとしていた。
浪人は思わず聞いた。「どこへ行く?」
「さあね、考えるのはもうやめたんだ。求められてもいなかった。エネルギーばっかり喰ってね。良いことなんて無かったよ」 脳がそう言い、
「心はここに置いていく」 心臓が晴れ晴れと言った。
「もうドキドキすることもないのだろうな」 浪人が手向けの代わりにそう言って、
「これからだろ?」 心臓がそう言って、脳は無邪気に頷いて、空高く舞い上がっていった。
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