言葉はいらない

  • 超短編 2,991文字
  • 日常

  • 著者:1: 3: ヒヒヒ
  • 至言は言を去り、至射は射ることなしーー名人伝、中島敦



    そのニュースを、穂波あずさは月で聞いた。宇宙港で地球行きの船を待っているところだった。AI革命の波に乗って膨大な財産を得た彼女は、40歳で早々と引退し、気の向くまま世界各地を旅行していた。ヴァーチャルリアリティなんて味気がない。この世の全てを自分の五感で味わい尽くすつもりだった。

    そんなあずさがVIP専用ラウンジのカフェで紅茶を楽しんでいると、パートナーAIが彼女に呼びかけた。旅の途中であり、緊急のこと以外は告げるなと命じていた。

    「ご友人のニュースのようです」

    読み上げて、とあずさは言った。

    『横浜市在住の男性、一言も喋らないまま生涯を終える』

    間違いない。あずさの友人だ。その奇妙な幼馴染のことを、彼女は岩猿と呼んでいた。

    死んだんだ。あずさはティーカップを置いて、しばし瞑目した。それからAIに問いかけた。

    やつからメール来てない?

    いいえ、と、AIは静かに言った。

    あずさはAIに命じた。ウェブで得られる情報をかき集めて、要約して、私に聞かせて。

    死因は医療処置。自ら望んでの安楽死だった。



    横浜市在住の男性が、一言も喋らないまま生涯を終えた。

    正確には、成人してから一言も、と言う但し書きがつく。2010年、神奈川県のシステムエンジニアの家庭に生まれた彼は、2028年に成人してから、2060年に亡くなるまでの32年間、ただの一度も声を発しなかった。

    もちろん声帯や声を出す能力は正常であり、成人式の前には、ある映像記録と音声を残していた。

    それは決意表明だった。

    「明日、成人したら俺は、二度と言葉を発さない」色の黒いつぶらな瞳の青年が、カメラに向かってそう断言した。口の端には笑みが浮かんでおり、冗談のようにも聞こえる。が、じっとカメラを見つめる目には、どこか思いつめたような気配があった。

    なぜ、そんなことを誓おうと思ったのか。彼は理由を明かさなかった。映像の中で日付が変わり、彼は成人し、記録は終わった。

    その後彼が一言も言葉を発しなかったことは、彼が終始身につけていた二つのウェアラブルコンピューターが証明している。

    一つはチョーカー型ライフロガーであり、彼の心拍数、発汗とともに周囲の音声を記録していた。そのマイクは他人が彼にかける声を全て記録していたが、そのどこにも、彼が声を出して答えたケースはない。もう一つは腕時計型録音機であり、これも彼の周囲の音を全て記録していた。

    彼はログをウェブに即時アップロードしており、それが改ざんされた痕跡もない。

    同僚や友人とは、常にテキストメッセージでやりとりしていた。AI革命後、誰もがパートナーAIを持つようになってからも、AIに代弁させることはせず、全て自分でテキストを書いた。

    なぜ、声を発することを止めたのか。彼は自分の誓いを周囲に公表していたから、何度となく同じことを聞かれている。彼は決して核心に触れようとはしなかった。

    彼は大学卒業後、データサイエンティストとしてIT企業に勤務したが、特筆するような成果は残していない。

    恋人はなく、友人も少なかったが、小学生の時のクラスメイトとは生涯交流を絶やさなかった。そのクラスメイトの一人が、穂波あずさだった。



    小学生時代の岩猿のことを、あずさは「とんでもない目立ちたがり屋」だったと記憶している。先生が生徒に質問をした時は真っ先に手を挙げて、わざと正しくない答えを言う。注目されることに命をかけていた。

    常に輪の真ん中にいないと満足できない。そんな性格の岩猿が、なぜ中学に上がったとたんに大人しくなったのか。あずさは理由を知らなかったし、知りたいとも思わなかった。

    ただ、他の子に比べて背の小さかった彼が、身を縮めて廊下の端を歩くようになったことだけは覚えている。当時あずさは首席で中学を卒業することしか頭になく、大人しくなった岩猿を気遣う余裕などなかった。互いに深く関わることもなく、中学時代は終わった。

    岩猿と二人で話したのは、高校生の時だ。

    あずさは当時、断トツで出世して50歳までにはリタイアしてやると心に決めていた。破産した父のようにはなりたくない。毎日、放課後になると図書館に飛んで行き、門限ギリギリまで勉強を続けた。

    ある日、あずさが図書館から出ると、そこで岩猿が待っていた。まだ、岩猿というあだ名はなく、お互い呼び捨てにしていた。よっ、と小さく右手を上げた彼は、ひどくか弱く見えた。小学校の時の彼なら、ぴょんぴょんと跳ねながら現れただろう。

    「何か用」あずさはつっけんどんに言った。

    「ちょっと聞きたいことがあって」

    「手短に」あずさは歩き出した。中間テストの日が近く、苛立っていた。

    彼は追ってきたが、なかなか要件を言わなかった。業を煮やしたあずさが問い詰めると、彼はおずおずと言った。

    「どうしたら、お前みたいになれる?」

    「はぁ?」

    あずさが彼を振り返った時、すでに日は暮れかけていた。道に家の影が落ちて、あたりは暗い。点り始めた街灯が逆光になって、彼の表情は見えなかった。

    こいつは誰だろうと、あずさは思った。

    何か正体不明のものが、学生服を着て立っている。

    修学旅行で写真をとったとき、一人だけ大きくジャンプして、みんなの視線を独占したーーその頃の彼ではない。

    「お前はすごいよ。鬼みたいに勉強して、断トツの成績とって、みんなから尊敬されてる。すげえよ。羨ましい。俺、どうやったらお前みたいになれる?」

    「勉強すりゃいいじゃん」バカなやつだとあずさは思った。だからお前は中の上に甘んじてるんだ。

    彼の声が上ずった。

    「ただ勉強するだけじゃダメなんだ。お前と同じくらい、いや、お前よりも尊敬されるくらいになりたい」

    狭い校内の中、自分の名前が、驚嘆と嫉妬のため息まじりに囁かれていることなど、当時のあずさは歯牙にもかけなかった。

    学生服が腕を上げて、顔を拭った。それで、彼が泣いているのだとわかった。

    あずさにとっては路傍の石ほどにも価値のないものを、彼は欲しいと言っている。欲しくてたまらないと泣いている。

    「先輩たちに生意気だって言われても、俺、みんなに覚えててもらいたい。忘れられたくない。だからよう、教えてくれ。どうしたら俺、お前みたいになれる?」



    「あのとき私は、なんて言ったんだっけ?」

    あずさはAIに尋ねた。もちろん、答えられるはずがない。まだ、パートナーAIなんてなかった頃のことだ。

    宇宙船の搭乗ゲートが騒がしくなっていた。火星から有名アイドルの一団が到達したらしい。VIPラウンジを横切る端正な横顔には見覚えがあったが、グループ名が思い出せない。

    それもそのはず。今や人類は遠く木星にまで進出している。有名人は文字通り星の数ほどいて、そんなものをいちいち覚えてなどいられない。

    あぁ、そうだ。

    中島敦でも読んでろ、って言ったんだ。教科書に載ってた、あの虎を思い出したから。

    だからか。

    あずさは組んだ腕の上に顎を乗っけて、ぼんやり考えた。

    凡庸な容姿に平凡な学力、特技があるわけでもない一般人が、世界中に名を知らしめるための、たいして冴えているわけでもない突飛な方法。

    ネットを覗いてみると、ごくわずかな範囲ではあったけれど、岩猿のことが話題になっていた。

    彼の生きた証が、そこに残っていた。

    あずさは思い出す。忘れられたくない。そう言って泣いた彼の上で、月が白く輝いていた。

    【投稿者:1: 3: ヒヒヒ】

    一覧に戻る

    コメント一覧 

    1. 1.

      けにお21

      中島敦ってどんな作家だったかな、と探して、短めの「山月記」を読み返して、ほほうコレか、たぶん読んだことあるな、と。

      https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card624.html

      ヒット!

      虎は、これですねー

      岩猿が虎になった李徴で、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)があずささんですね。

      岩猿が喋らなくなったのは、有名になりたくて、だったのかな。

      李徴は、虎になりたくて、虎になった訳じゃなく、強い虚栄心から姿を虎に変えてしまった。皆から一目置かれ、畏怖される虎に。

      つまり、一緒なのかー!

      岩猿は、人間を捨てることで、有名になれ、虚栄心も満たされた。と言うことかな。

      主人公あずさの何気ない一言が、岩猿を虎に変えてしまった。


    2. 2.

      なかまくら

      なぜ中学に入って目立たなくなったのでしょうか。小学生と中学生では価値観が変わってきますよね。語らないことにリアリティがあるなと思います。
      あずさは罪悪感を感じるのでしょうか?
      でも、岩猿がその本懐を告げずに死んでいったこと、本人はまんざらでもなかったのかもしれません、と思います。
      最後にメールもせずに死んでいったこと、最後まで信念を貫いた生き様、十分にかっこよく感じますね。
      それにしても、岩猿とはよいネーミングです。