至言は言を去り、至射は射ることなしーー名人伝、中島敦
そのニュースを、穂波あずさは月で聞いた。宇宙港で地球行きの船を待っているところだった。AI革命の波に乗って膨大な財産を得た彼女は、40歳で早々と引退し、気の向くまま世界各地を旅行していた。ヴァーチャルリアリティなんて味気がない。この世の全てを自分の五感で味わい尽くすつもりだった。
そんなあずさがVIP専用ラウンジのカフェで紅茶を楽しんでいると、パートナーAIが彼女に呼びかけた。旅の途中であり、緊急のこと以外は告げるなと命じていた。
「ご友人のニュースのようです」
読み上げて、とあずさは言った。
『横浜市在住の男性、一言も喋らないまま生涯を終える』
間違いない。あずさの友人だ。その奇妙な幼馴染のことを、彼女は岩猿と呼んでいた。
死んだんだ。あずさはティーカップを置いて、しばし瞑目した。それからAIに問いかけた。
やつからメール来てない?
いいえ、と、AIは静かに言った。
あずさはAIに命じた。ウェブで得られる情報をかき集めて、要約して、私に聞かせて。
死因は医療処置。自ら望んでの安楽死だった。
横浜市在住の男性が、一言も喋らないまま生涯を終えた。
正確には、成人してから一言も、と言う但し書きがつく。2010年、神奈川県のシステムエンジニアの家庭に生まれた彼は、2028年に成人してから、2060年に亡くなるまでの32年間、ただの一度も声を発しなかった。
もちろん声帯や声を出す能力は正常であり、成人式の前には、ある映像記録と音声を残していた。
それは決意表明だった。
「明日、成人したら俺は、二度と言葉を発さない」色の黒いつぶらな瞳の青年が、カメラに向かってそう断言した。口の端には笑みが浮かんでおり、冗談のようにも聞こえる。が、じっとカメラを見つめる目には、どこか思いつめたような気配があった。
なぜ、そんなことを誓おうと思ったのか。彼は理由を明かさなかった。映像の中で日付が変わり、彼は成人し、記録は終わった。
その後彼が一言も言葉を発しなかったことは、彼が終始身につけていた二つのウェアラブルコンピューターが証明している。
一つはチョーカー型ライフロガーであり、彼の心拍数、発汗とともに周囲の音声を記録していた。そのマイクは他人が彼にかける声を全て記録していたが、そのどこにも、彼が声を出して答えたケースはない。もう一つは腕時計型録音機であり、これも彼の周囲の音を全て記録していた。
彼はログをウェブに即時アップロードしており、それが改ざんされた痕跡もない。
同僚や友人とは、常にテキストメッセージでやりとりしていた。AI革命後、誰もがパートナーAIを持つようになってからも、AIに代弁させることはせず、全て自分でテキストを書いた。
なぜ、声を発することを止めたのか。彼は自分の誓いを周囲に公表していたから、何度となく同じことを聞かれている。彼は決して核心に触れようとはしなかった。
彼は大学卒業後、データサイエンティストとしてIT企業に勤務したが、特筆するような成果は残していない。
恋人はなく、友人も少なかったが、小学生の時のクラスメイトとは生涯交流を絶やさなかった。そのクラスメイトの一人が、穂波あずさだった。
小学生時代の岩猿のことを、あずさは「とんでもない目立ちたがり屋」だったと記憶している。先生が生徒に質問をした時は真っ先に手を挙げて、わざと正しくない答えを言う。注目されることに命をかけていた。
常に輪の真ん中にいないと満足できない。そんな性格の岩猿が、なぜ中学に上がったとたんに大人しくなったのか。あずさは理由を知らなかったし、知りたいとも思わなかった。
ただ、他の子に比べて背の小さかった彼が、身を縮めて廊下の端を歩くようになったことだけは覚えている。当時あずさは首席で中学を卒業することしか頭になく、大人しくなった岩猿を気遣う余裕などなかった。互いに深く関わることもなく、中学時代は終わった。
岩猿と二人で話したのは、高校生の時だ。
あずさは当時、断トツで出世して50歳までにはリタイアしてやると心に決めていた。破産した父のようにはなりたくない。毎日、放課後になると図書館に飛んで行き、門限ギリギリまで勉強を続けた。
ある日、あずさが図書館から出ると、そこで岩猿が待っていた。まだ、岩猿というあだ名はなく、お互い呼び捨てにしていた。よっ、と小さく右手を上げた彼は、ひどくか弱く見えた。小学校の時の彼なら、ぴょんぴょんと跳ねながら現れただろう。
「何か用」あずさはつっけんどんに言った。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「手短に」あずさは歩き出した。中間テストの日が近く、苛立っていた。
彼は追ってきたが、なかなか要件を言わなかった。業を煮やしたあずさが問い詰めると、彼はおずおずと言った。
「どうしたら、お前みたいになれる?」
「はぁ?」
あずさが彼を振り返った時、すでに日は暮れかけていた。道に家の影が落ちて、あたりは暗い。点り始めた街灯が逆光になって、彼の表情は見えなかった。
こいつは誰だろうと、あずさは思った。
何か正体不明のものが、学生服を着て立っている。
修学旅行で写真をとったとき、一人だけ大きくジャンプして、みんなの視線を独占したーーその頃の彼ではない。
「お前はすごいよ。鬼みたいに勉強して、断トツの成績とって、みんなから尊敬されてる。すげえよ。羨ましい。俺、どうやったらお前みたいになれる?」
「勉強すりゃいいじゃん」バカなやつだとあずさは思った。だからお前は中の上に甘んじてるんだ。
彼の声が上ずった。
「ただ勉強するだけじゃダメなんだ。お前と同じくらい、いや、お前よりも尊敬されるくらいになりたい」
狭い校内の中、自分の名前が、驚嘆と嫉妬のため息まじりに囁かれていることなど、当時のあずさは歯牙にもかけなかった。
学生服が腕を上げて、顔を拭った。それで、彼が泣いているのだとわかった。
あずさにとっては路傍の石ほどにも価値のないものを、彼は欲しいと言っている。欲しくてたまらないと泣いている。
「先輩たちに生意気だって言われても、俺、みんなに覚えててもらいたい。忘れられたくない。だからよう、教えてくれ。どうしたら俺、お前みたいになれる?」
「あのとき私は、なんて言ったんだっけ?」
あずさはAIに尋ねた。もちろん、答えられるはずがない。まだ、パートナーAIなんてなかった頃のことだ。
宇宙船の搭乗ゲートが騒がしくなっていた。火星から有名アイドルの一団が到達したらしい。VIPラウンジを横切る端正な横顔には見覚えがあったが、グループ名が思い出せない。
それもそのはず。今や人類は遠く木星にまで進出している。有名人は文字通り星の数ほどいて、そんなものをいちいち覚えてなどいられない。
あぁ、そうだ。
中島敦でも読んでろ、って言ったんだ。教科書に載ってた、あの虎を思い出したから。
だからか。
あずさは組んだ腕の上に顎を乗っけて、ぼんやり考えた。
凡庸な容姿に平凡な学力、特技があるわけでもない一般人が、世界中に名を知らしめるための、たいして冴えているわけでもない突飛な方法。
ネットを覗いてみると、ごくわずかな範囲ではあったけれど、岩猿のことが話題になっていた。
彼の生きた証が、そこに残っていた。
あずさは思い出す。忘れられたくない。そう言って泣いた彼の上で、月が白く輝いていた。
コメント一覧
中島敦ってどんな作家だったかな、と探して、短めの「山月記」を読み返して、ほほうコレか、たぶん読んだことあるな、と。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card624.html
ヒット!
虎は、これですねー
岩猿が虎になった李徴で、袁※(「にんべん+參」、第4水準2-1-79)があずささんですね。
岩猿が喋らなくなったのは、有名になりたくて、だったのかな。
李徴は、虎になりたくて、虎になった訳じゃなく、強い虚栄心から姿を虎に変えてしまった。皆から一目置かれ、畏怖される虎に。
つまり、一緒なのかー!
岩猿は、人間を捨てることで、有名になれ、虚栄心も満たされた。と言うことかな。
主人公あずさの何気ない一言が、岩猿を虎に変えてしまった。
なぜ中学に入って目立たなくなったのでしょうか。小学生と中学生では価値観が変わってきますよね。語らないことにリアリティがあるなと思います。
あずさは罪悪感を感じるのでしょうか?
でも、岩猿がその本懐を告げずに死んでいったこと、本人はまんざらでもなかったのかもしれません、と思います。
最後にメールもせずに死んでいったこと、最後まで信念を貫いた生き様、十分にかっこよく感じますね。
それにしても、岩猿とはよいネーミングです。