川崎さんという人が近所には必ず住んでいる。
気付いていない人も多いが、これは紛れもない事実である。
川崎さんと言う名前を名乗っていない場合も多いが、市の住民登録を見られる機会がある立場上、私はそのことを知っていた。
ところが、一度だけ川崎さんのいない土地に移り住んだことがあった。その時の話を少ししようと思う。
その土地は、至って平凡な土地で特に何か特別な感じがする場所ではなかった。まあ、私はシックスセンスとでも言うべき感覚は持ち合わせていなくて、お化け屋敷を純粋に怖いと思ったり、こっくりさんやトイレの花子さんもなんかやだな、と思うようなそういう一般的な霊的忌避をする程度の人間であった。私が移り住んだのはその閑静な住宅街にある一軒家であった。丘の上にあるその住宅街はひとつの不動産会社がすべての物件を管理しており、ひとつの街の様な形態をとっていて、道は赤いタータンのようなものが貼られ綺麗に舗装されていて。……あとから思い返してみれば、血液が流れだしているようであった。
私の借りた一軒家は、一軒家とはいっても小さな建物で、扉を開けると一階は一部屋しかない。部屋の隅には家の外に飛び出すようにトイレとバスルームがそれぞれ作られており、外から見ると家の形を正方形から少し変化のあるものにしていた。二階はロフトのようになっており、ベッドがそこに置かれていた。
夜になると、虫のなく声が湧き上がるように聞こえるようになった。その鳴き声はうるさく、一晩中静まることはなく、私はすっかり辟易してしまった。管理会社に連絡をすると、「打つ手がない」とのことであった。駆除をしようにも肝心の虫たちがどこにいるのか分からず、夜になるとどこからともなくなき出すそうだ。お詫びに、と目覚まし機能のあるヘッドホンが届けられた。なかなかに洒落た贈り物に私はもうしばらくその地に住むことにした。それからしばらくは何事もない日々が続き、会社の決算が近づいていたこともあり私はすっかり虫のなき声のことなど忘れてしまっていた。そんなある日のことだった。
私が道を歩いていると道端のある家の壁に吸い寄せられるようにぴたりと吸いつけられてしまう。すると胃の辺りを掴まれたような感覚に続いて、よじれる様な吸い込みが広がり、身体が壁に飲み込まれていった。その時、太陽が真っ黒に輝いており、よく見れば空は真っ白な暗闇だった。それでなんとなくそれが夢だと気付いた。じっとおとなしくギリギリと内臓を掴みとり、吸い込むような気持ち悪い感覚に耐えていると次第に視界の境界がぼやけ、いつもの天井が広がっていた。シャツをめくってさすってみても、何があるわけでもなかったが、それからしばらく、胃腸の調子がおかしかった。
川崎さんに会ったのはちょうどその頃であった。川崎さんは陽気な雰囲気を持つ男性で、旅行でこの辺りまで来たが、一日どこか泊まれるところはないかと市役所に来ていた。当てはなく、私の家に泊まってもらうことになった川崎さんは自転車旅を続けているその先々での写真を見せてくれた。私はお礼にと、一升瓶を開けお酒を酌み交わした。私はいつの間にか眠ってしまったようであった。次の日、目が覚めると、川崎さんが真っ青な顔で震えていた。事情を聴こうとすると、川崎さんはとにかくここから離れたいと一点張りであり、応答が出来なかった。
ただ事ではないと感じた私は、川崎さんを車の助手席に乗せてインターチェンジから高速へと飛び乗った。カタカタとハンドルを持つ手は震えていた。予感としてなんとなくあったものが私にもはっきりとした輪郭として描きだされつつあった。違和感を感じたのは私だけではなかったのだ。そして、ようやく口に出したのは次のような問いであった。
「一番近くにある川崎さんのお宅はどこですか?」
それからの川崎さんの話は、私をその家から遠ざけるには十分すぎるものであった。家の始末は業者に任せて、二度と戻ることはしなかった。…連れて行きたくはなかったから。
私は今、とある街で市長をしているが、川崎さんの配置には気を付けている。
そして少子化と過疎の進行に気を使っている。近い将来、川崎さんを巡る争いが各地で起こるだろう。その日に備えていかねばならない。
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