夕暮れせまるころ、ノートパソコンがちりんちりん、メール着信を告げる。天使からの電子メールだった。
『 下のリンクをクリックしますと、あなたの願いを届けます。
http://○○○.angel.com 』
電子からの天使メール? あっ、大差ないか。アダルト直行かな。それにしても、この広い世界の片隅で暮らすぼくのささやかな願いとは言えば、 何だっけ?
築十五年のアパート二階二〇八号( この辺ではかなり安いのだ )、部屋の広さは八畳、入り口のすぐ横には洗濯機、続いて小さな台所、銀色シンクとガスコンロがついている。窓からは西日がさしこみ、小さなシンクの縁が金色の光を帯びている。
で、今、どこかに隠されたままのフランスパンみたいに堅いマットレスの上で、村上龍の著作、『 あの金で何が買えたか 』、読み進めてページは四十五。
『 途上国の子どもすべてに基礎教育を 』
プライスは八千四百億円。失業中のぼくには、夕暮れ、たそがれ空にたなびく雲よりも高い世界だ。台所を照らす小さな蛍光管は、ちりちりと小さな音をたてて、お役ご免とばかりに自己主張の点滅を始める。天使を呼んだのはあなたではなく、わたしなのよ、と言われているみたい。再びマットレスに寝ころび、幾何学模様、天井の木目を眺める。奇妙な時間の吸い込み方をした模様。窓の外からは走行車両、アスファルトをこすりつけるタイヤからのロードノイズ。車両がだんだん近づいたかと思うと通り過ぎて、遠ざかる。
天井との空間に架空の正方形を描き始めてみる。それを四分割して小さな正方形を創(つく)り上げる。無意味な作業を十九回、いや、二十二回繰り返すと、小さな正方形はますます小さくなる。
でも、思い描いているかぎり、正方形は存在しているのだ。
薄い壁を隔てた隣、二〇七号室から子どもの声、テレビのチャンネル権をめぐる兄妹(きょうだい)争奪戦。そのうち、母親である高村さんの雷が轟(とどろ)くだろう。いつものことだ。どこからともなくカレーのにおいが漂う。高村さんちの、小さな天使たちの大好きなメニュー、もちろんぼくも好きだ。昨日炊きすぎた白いごはんはラップに包んで冷凍保存してある。妹からご教授されたときを思い浮かべた。すると、入り口のドアからノックの音、がちゃり、高村さんからカレーのおすそ分けがやって来た。
テレパシー? 思えば届くものなんだなぁ。
「 良かったらカレー食べる? 良いところ見つかった? 早く職を見つけないと仁美ちゃんにふられちゃうよ 」
「 マジですか。ありがとうございます。だんなさんからもお酒とか頂いちゃって、もう、お世話になりっぱなしで恐縮です 」
「 いいの、いいの、こんな時はね、お互いさまなんだから。ところで、ごはんはあるの? 」
「 あります、あります。抜かりはありません 」 ぼくが笑うと、高村さんもにっこりと笑ってくれた。
四年前、高村さんは七歳である長男を交通事故で失った。そのことを聞いたとき、メモリアルホールの葬儀で高村さんのご家族を見たとき、そしてそのことを思いだした現在でも心が痛くなる。地の底を流れる河を見つめまま、どろりとした液体のような空気が高村さんの表情を支配していた。典型的なうつ状態、はたから見てもありありと認識できたほどだ。いたしかたない。
でも、家族というものは、残された家族というものは不思議なほど強いエネルギーを持っていて、この状況とも戦う。
高村さんは『 認知行動療法 』という治療を受けて、うつから脱出したのだ。もちろん、だんなさんの強い意志と、残された天使のような兄妹が輪になって、お互い手をつなぎ、目には見えないけれど輝くばかりの光りの存在があった、と、ぼくは信じている。
首都高速感情線C1、芝公園付近。夜空には、都会の光りに負けない流星群が、まるで命の輝きみたいに煌(きら)めいていた。
あっ、そうだ。先ほどの天使メールに返信をしよう。うん、わるくない。
天使メールに記載されたホームページアドレスをクリック。案の定、たくさんの女の子、中にはトップレスの子がフラッシュ映像となり、十四インチのディスプレーをところ狭しとばかりに踊っている。ぼくはかまわず、天使への返信フォームを捜しだし、再びダブルクリック。で、ぼくのささやかな願いをキーボードへと打ち込む。送信と書かれたボタンをクリックすれば、この文章が天使への返信となるわけだ。
天使に告ぐ
銀河系のどこか、恒星ヴェガあたりで高村さんちの長男、貴幸くんを見かけたのならば、たまには、ご家族の夢へと現れて互いの元気を確かめるように言ってください。
それともうひとつ、アンドロメタでペルセウスの妻の座を狙っているぼくの妹へとですが、もっとおしゃれをして誘惑してみろ!
ぼくは、太陽系第三惑星、地球のとある街で毎日ごはんを食べて、眠り、失業しちゃったけれど元気に暮らしている、と伝えてください。
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