最近、よく夢を見る。
水の向こうに揺らめいている海底。
海底からの視点に移ると、泡が上っていくのが見える。
ぼん、とバブルリングが海底から生まれると、周りのプランクトンや小さな泡、積もった塵なんかを巻き込んで、浮上していく。その泡の中では、激しく渦巻いてやがて小さな細胞が生まれる。せわしなく動き回る細胞は、くっつき合うことを発見し、やがて複雑な構造を実現していく。コミュニティーを作り出し、分裂とは異なる増え方を見いだし、そして、異なるものを排除するようになる。激しく争い、そして最後には、ぱちん。
海底からの視点の中で、はじけて消えた。
最近よく見る夢の話だ。
*
「ただいま」
待っている人の居ないアパートへと帰った。がらんどうの部屋。蛍光灯が苦しそうに明滅し、点灯した。リビングに置かれた背の低い机には大切な写真が置いてある。写真の中で妻と子どもが笑顔を見せていたが、今はもう、それは別の男のものになっていた。
包装フィルムをむしり取り、電子レンジに入れると、他にやることもなくテレビを点けた。
「遂に発見! 謎の石版・・・その内容は?」
見出しが画面の右上に表示されている。
ちん、レンジが調理完了を知らせた瞬間、ぼくは自分の目を疑っていた。表示によれば、目の前の映像はライブ映像だという。どこかで見たような海底。頼りない光線がゆらゆらと照らして、全容は見えない。ただ、目の前に広がるのは、どこか懐かしいような、そんな・・・。
こんこん、
「はぁい!!」 反射的に答えて、その自分の声が水の中から聞こえているようだと思った。
こんこん、その音はひどく遠慮がちで、遠くに聞こえた。それから声がして、
「川崎さん・・・ではないですね」 女性の声で、向こうから聞こえてきた問いかけに対して咄嗟に答えていた。
「違います。私は藤原です」
「そうですよね」
それだけの会話だった。レンジが、ちん、と鳴った。さっき、鳴らなかったか。
扉の隙間から蒸気が立ち上っていて、中の冷凍食品は見えなかった。ただ、何かの影がもぞりと動いた気がして、背中をぞわりとしたものがよじ登った。無言でコンセントを抜いた。それから扉をガムテープで完全に密閉して、風呂場に置いて、布団を被った。音はなかった。都市の騒音。それ以外何の音もない、静かな夜だった。気が付いたら、眠っていた。
*
「川崎君」
博物館。資料室の扉を開けようとしたところで、声をかけられる。
「いえ、藤原ですが」
「うん、それだ」 上司はぼくの名前を覚えていない。
「歩きながら話そう。化石の整理、どこまで進んでいるかな」
「はい」 資料室に入るのは諦めて、先に珈琲を買うことにした。ポケットの中の硬貨を転がして確認する。
「38億年前、最初の生物が発見されたものから、順番に並べています」
「そうだろうね、それがまさに頼んだ仕事だからね」 上司のことは3年の付き合いになるがはよく分からない。
「それで、その系統ごとに進化の系譜をたどるように、標本を置いているところですが、」
「そう、進化なんだよ。進化なんだ。生命は進化することでここまで多様な生物種を生み出してきた。けれども、進化の果てに滅びようとしている」 上司の終末思想はいつものことだった。それで、こう続くのだ。「では、そもそも、我々の細胞はウィナー・インザ・ポッド(確率的に生き残ったもの)だとして、何故選ばれたのだろうね」
それで、ぼくの答えも決まっている。「私は神の存在を信じるつもりはまだありませんから」それは自分にとってその問いが決して高尚なものではなく、その問題がどうしても解決しなければならないこととは感じられないから、というだけの理由なのだが、“まだ”という言葉に、上司はどこか満足気な顔をする。それから「なるほどね」としたり顔でつぶやいて、いつもぼくは迷惑に思っていた。
「うん。そこまでやってくれてあれば、大丈夫だ。」 何が大丈夫なのか、と身構えると、
「例の石版なんだけどねぇ・・・」 懐に手を突っ込む。そして出てくる航空券。ああ。
「現地調査に行ってきてくれたまえ」 イヤな予感は当たっていた。
思えば、あのときもそうだった。突然の海外出張。あのときは、地面にぽっかりと開いた穴の中だった。パラシュートでしたまで降りて、墓標を調べた。それは、誰のための墓だったのか、咲いていた小さな花で花束を作って、供え物にした。祈りの手を合わせると流れ込んできたのは、何だったのか。それは星の悲しみのような、抱えきれない感情のような。気が付けば、救助のヘリの中にいた。それから、帰ってほどなくして、妻は娘を連れて出て行った。
あのとき何かが変わってしまったのだ。あれ以前と、あれ以降ではどこか自分でない自分が目覚め始めていたのだ。最近よく夢を見る。水の向こうに揺らめいている海底。
ざざん、波の音。どこか懐かしく感じる音。
ウェットスーツを着て、酸素ボンベを背負っていた。
「では、行ってきます」
TV局はスクープを求めて、競って船を並べていた。彼らは、今どんな感覚なんだろうか。
身体が内側から温かくなるようだった。どくん、どくん、と動悸が起こる。強く打ち付けて、普段よりもぼくの身体が何かに備えるように、強く命を輝かせようとしているようだった。
沈んでいくぼくを、海底から見ているようだった。
海底はどこまでも暗い。明かりは、当たっている場所だけを照らしている。
「・・・顔?」
ぼくは何故かこのとき、あの日の夜を思い出していた。あのとき、「そうです。川崎です」と言っていたなら。
顔で言うなら鼻の穴の辺りをこんこん、と遠慮がちにノックしていた。
それから、それを問うたのだ。
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