酔えなかった。
加賀良平は黒ビールをグラスで飲んでいた。2杯目である。
それほどアルコール度はなくすぐに飲み干し、次にいけるがそれ以上に飲む気がなかった。
ドイツ・ミュウヘンの小さなパブにいた。
小さい店だが客はそこそこおり店員が忙しそうに走り回っている。
客と店員の喧騒の中で黒ビールの瓶を取りガラスに注いだ。
果たしてこれを全部飲み干せるか分からなかった。
テーブルの反対側には男が座っていた。男は良平とは反対に黒ビールを飲み続けてる。
「リョウ。ビールが進んでないな。不味いか?」
男は良平をあだ名で呼んだ。
「不味かねーよ」
良平はテーブルにあるソーセージを口にする。
「日本人ってのはそう考え込むのかね?」
「知らんな。考える奴は考えるじゃないか?」
良平はソーセージを全部食べ終え、黒ビールを少しだけ飲んだ。
「サラエボに帰るだけだぜ。そのどこに考えがある?」
男は笑った。
帰るか?
自分の故郷に帰る。それだけなら良平は考える必要はなかった。
「しかし、またミュウヘンに帰ってくるのか?」
「......」
男は笑うのを止めた。
「わからんな」
男はそのまま飲みかけの黒ビールを飲み干した。
良平は、ミュウヘンのナイトクラブで働いていた。
表向きはナイトクライブだが、裏では違法な売春・麻薬の仕事を仕切っていた。
この地域の警察関係にも金を握らせ甘い汁を吸わせていた。
そんなある日に男が来た。
用心棒として雇ってくれと。
「オーストリアから来た。そこでも用心棒をしていた」
良平とナイトクラブのオーナーは話し合い、若手の3人で腕試しをさせた。
男は瞬く間3人をノックダウンさせた。
「ボクシングだな」
良平は男の動きを見て言った。
「リョウ。勝てるか?」
良平の独り言を聞こえたらしくオーナーは挑発的な言葉で言った。
「めんどくさい」
良平は適当にあしらった。男を用心棒として雇った。
用心棒とは言ってもやる事は暴れる客をつまみ出したり、他の勢力の下っ端共を追い払うぐらいだ。
良平がやっている仕事はさせていない。
男は用心棒の仕事以外は周りとは関りを持たないような感じで休憩室の隅え本を読んでいた。
良平は今までの用心棒とは違うと感じていた。
男は用心棒の仕事になると凶暴なほど強かったがそれ以外は静かな男だった。
良平は興味を持ち、黒ビールの瓶を二つ持ち休憩室の隅で本を読んでる男に一本渡そうとした。
男は本から目を逸らして黒ビールの瓶を見ながら、
「いや、仕事中だ」
断った。
「仕事中ね」
良平は自分用の黒ビールの瓶をラッパ飲みした。
「仕事中に本か?日本なら怒られるぜ」
「ここは、日本じゃない。誰も文句を言わないから読んでるだけだ」
「なら、俺が文句を言ってやるよ」
良平は近くにあるパイプ椅子に座った。
「何を読んでるだよ」
「シュンペイターの経済学の本だ」
「シュンペイター?」
良平はオウム返しに言った。
男はシュンペイターの本について話したが良平は分からず苦い顔をするしかなかった。
「ようは金をどう儲けるかだな」
「まあ、それもあるな」
男は不満そうな顔をした。
良平はそれを無視して黒ビールを飲んだ。
「シュンペイターって言う奴はいい事も言ったもんだが、しかし良い社会性・良い人間の生き方。そんなものはここでは役には立たんよ」
良平は男の説明に頭をボーとさせながら自分なり噛み砕いた。
自分がやっている仕事は表では通用しない物である。
「その本に書いてる事が通用しない所に俺とお前はいるんだよ」
「そうだな。いくら読んでも通用しないな」
男は膝に本を置き良平が片手に持っていた黒ビールの瓶を手にした。
「しかし、頭いいな。ドイツ語も訛りがあるが上手いしな」
「元はドイツの大学で経済学を学ぶ予定だったんだけど戦争が起きてな」
男は良平に真似てラッパ飲みした。
「戦争」
良平は体に鳥肌が立った。
「勉強して本を読んでいたが、あの戦争では結局は役に立たなかった」
男は静かに言った。
「その戦争は......」
良平は言いかけたが口を閉ざした。
数秒の沈黙が休憩室を支配しが、
「しかし、このビールうまいな」
「そうだろ。ミュウヘンで一番美味いビールだ。まあ店からかっぱらてきたものだがな」
良平はニヤリと笑い男も声を出して笑った。
良平は店を駆け回ってる店員を無理矢理止め酒を注文した。
店員は、キョロキョロと目で周りを見ていたが良平は威圧的な態度を取り、それに負けて優先的に持ってこさせた。
男は良平の行動に苦笑しながら見ている。
数分後持ってきたのはビン2つの黒ビールだった。
「あのときに飲んだ店と同じ物だ」
「そうか、あの酒か」
男はそう言いそのままビンを店員から受け取った。
「忘れちまえよ。昔の事など」
良平も店員からビンを貰った。
男の動きが止まった。
「昔の事に囚われて何になる。お前はドイツのミュウヘンで用心棒として信頼されている。生活も困ってない。帰る必要があるのか?」
「シャヒード」
男は良平に目を向けた。
「ボスニア人ではあの戦争で死んでいった者達をシャヒードと呼ばれた。」
男は自分の生まれた言葉で話した。
「だから、なんだ?」
良平も同じ言葉で返した。
「親父や兄達はあの戦争で戦いそして戦死してシャヒードとなった」
男の目が鋭くなる。良平は黙った。
「俺も戦った。しかし生き残った。戦争が終わり、俺は何をすればいいか分からず、荒れた生活をしていた」
男の声が鋭利に良平の胸を刺す。
生きた屍
良平は頭に浮かんだのはその言葉だった。
「しかし、そこで愛する女ができた。荒れながらも心の拠り所を見つけた」
周りの客が良平と男の聞きなれない言葉の会話に顔を振り向かせていた。
良平はその客達の行動を感じていたが無視して男の方を見続けていた。
「だから、俺は彼女のために帰るだけだ。サラエボに」
男は口を閉じた。微動だにせず、石像の様に固まった。
愛する女の為に帰る。普通なら笑いながら見送るだろう。
「死んだ女の為に帰るのか?」
良平は口を開いた。男は顔を少し前のめりになっていた。
「死んだ女の為に墓参りでも行くのか!!」
良平は怒鳴った。それと同時に男の手が胸ぐらを掴み無理矢理に立たせようとする。
良平はそのまま立った。男の顔が良平の近くまで来た。
「俺の愛した女は殺された。俺は彼女の殉教者になる。お前はそれを止める権利があるのか?」
過激な行動に反して冷たい声で男は良平に言った。
周りの客がざわめき始めた。店員も集まり、何かを話し始めている。
「店に迷惑がかかる。外に行こうぜ。酔い覚ましにな」
良平は言い男は胸ぐらをから手を離した。
「済まなかった」
男はいつもの冷静さを取り戻した。
「ここは俺が奢る」
良平は店長を呼び付け、料理の代金と少しばかりの金を渡した。
店長は顔をこわばらせながらも受け取り、
ヘル・カガ勘弁してください。と言いながら、作り笑いをした。
ふん、と良平は鼻を鳴らし外に出た。
男も店長に済まんなとドイツ語で謝った。
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