※はじめに
この作品は、茶屋さんの作品「奇妙な事実!『指名手配犯ジャクソン・メイビット死体で発見』」から着想を得たものです。そちらも併せて読んでいただけると一層お楽しみいただけると思います。
茶屋さんのお話はこちら
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電話が鳴っていた、電話が鳴っていた。クリス・ケルヴィンはその音を、テーブルに突っ伏しながら聞いていた。
こぼれた牛乳の海に、シリアルの船が浮いている。彼女が見たら怒るだろうな、きれい好きだったからな。そう思ったとたん、胸を強烈に締め付けられて、クリスは跳ね起きた。テーブルの上を腕で薙ぎ払って、声にならない悲鳴を上げる。
そのままソファにうずくまって獣のように泣いたが、胸の痛みは収まらなかった。
七年前に警察官になってから、自分自身の死は覚悟できていた。家族の死も――そういうことはあり得るだろうと思っていた。だが、妻が自ら死を選ぶなんて。
「なんで、なんで言ってくれなかったんだ」
最愛の人だった。人生のどん底にいた時――警察官だった父親が殉職したとき――ずっと支えてくれたのが彼女だった。これから支えあって生きていくのだと思っていた。それなのに自分は、彼女が苦しんでいることに気づきもしなかった。
彼はソファにうずくまりながら、呆然と窓の外を見た。ささやかな庭に、いくつもの植木鉢が並んでいた。先週、妻が死んで以来、一滴の水もやっていない。彼女が愛した草花は枯れつつあった。白い花が、茶色になってしおれていく。
彼女が特に愛した花だった。小さな花が塊になって咲く花で、日本から持ってきたものだという。クリスも、妻の雰囲気に似ていて可愛らしいと思っていたが、その名前を知らなかった。聞けずじまいになった。花の名前も、彼女が抱えていた苦しみも。
声が、声が聞こえていた。薄暗い道を、花の匂いに包まれて、クリスはぼんやりと歩いていた。
「クリス、クリス」
聞きなれた愛おしい声。ときどき日本語のなまりが混じるところまでそっくりだ。だけど君は死んだはずだろう? ここは死後の世界なのだろうか。クリスは誘われるままに歩き続けた。
鼻をかすめた爆発物のにおいが、警察官としてのクリスを覚醒させた。とっさに腰の拳銃に手を伸ばす。幸いきちんと装備してきたようだ。だが、ここは? 武器を持ち込める天国など知らない。通路の半ばにいるようだが、あたりは暗く、どれくらい広いのかもわからない。いつ用意したのだろうか、手にランプを持っていた。
壁に手をつくと、ひんやりとした土の感触がした。足元を走るレールはトロッコのためのものだろうか。近所に封鎖された坑道があったことを思い出す。だが、なぜそんなところにいるのか、自分でもわからない。
クリスはいぶかしく思いながらも、前に進んでみることにした。やがて左手に扉が見えた。ノックをしたが返事はない。銃に手を触れながらノブを回すと、ドアは容易に開いた。
「誰かいるか」
返事どころか物音一つ聞こえない。小さな室内に明かりはなく、ランプの頼りない明りで探ると、そこが休憩室のような場所であることが分かった。壁に並んだロッカーと、小さなデスク。その側に箱があり、近寄ってみると「危険」と書いてあるのが見えたが、蓋の鍵は壊されていた。中には黄色い包装に包まれたものが見える。爆薬のようだ。
デスクの上には火の消えたランプとメモがあった。坑道には似つかわしくない花柄のメモが数枚、走り書きされたような文字が残されている。
――この坑道はまるで食虫植物だ
――あいつは人間の記憶を読み取り再現する
クリスはメモを読んだ。馬鹿げた話だとしか思えなかった。このメモを書いた人物は、娘を亡くした警察官を名乗っていた。彼の死んだはずの娘が、生前の姿のままこの坑道に現れて、自分を呼ぶのだと、メモには書いてあった。
到底信じられない。死者は蘇らないし、魔物など存在しない。クリスは思いなおして首を振ったが、不安は消えなかった。さっきまで聞こえていた声――まぎれもなく自殺した妻、ハルミのものだった。クリスはメモの助言に従って、爆薬を持っていこうかと考えた。
馬鹿馬鹿しい。クリスはメモを机の上に残し、その場を後にした。他の警官にでも会った時にどう説明するんだ。この手のいたずらは警察署に山のように持ち込まれてくる。万が一魔物がいたとして、銃があれば大丈夫だ。
――花柄のメモは、死んだ娘が好きなものだった。
その一文が、クリスの胸を刺した。ハルミも花が好きだった。
坑道にこだまする自分の足音を聞きながら、クリスは前に進んだ。小さなライトのか細い明りが足元を照らす。廃棄されたままの機器をよけ、土砂を迂回して進むうちに、やがてどれだけ歩いたかもわからなくなってきた。
花の匂いを嗅いだ気がした。暗闇の向こうで声がした。
「クリス……? そこにいるのね?」
全身の毛が逆立った。聞きなれた声、ずっと聞きたいと思っていた声。これがハルミのものであるはずがない。だが、ハルミでないはずがない。
「ハル、ハルなのか?」
思わず呼び返したとき、闇の向こうで相手が身じろぎし、腕で顔を隠した。
「明かりを降ろして、クリス。こんな顔を見られたくないの」
クリスは思わず立ち止まった。彼女の最期を思い出す。嘔吐物の中に浮かぶ、変色した妻の顔。
だが、メモにはこうもあった。
――あいつは光や熱に弱い
「本当に君なのかい?」
「私だって信じられない。もう二度と会えないって諦めてた」
「それならどうして自殺なんか」
「お願い、それだけは言いたくないの。私、あんな私をあなたに知られたくなかった」
そんなことはどうでもいい、と、クリスは思った。彼女を抱きしめられるのなら、なんだっていい。だが、彼女が本物であるはずはない。妻は死んだのだ。
――あいつは人間の記憶を読み取り再現する
庭に咲いた白い花。
「聞きたいことがあるんだ」
「こっちへ来て、あなたのほほに触れさせて」
思わず駆け寄ってしまいそうになるのを、懸命にこらえる。
「ハル。庭に、白い花があるだろう。小さな花が、塊になっていくつも咲く花だよ。君が日本から持って来た花だ」
「花が、何?」
「あの花の名前は、なんていうんだい?」
目の前に立つソレは、しばらく返事をしなかった。
クリスが拳銃に手をかけようとしたとき、ようやく言った。
「あなたは、なんて答えてほしいの?」
ソレが腕を降ろして、その顔を見せる。生前の、美しいままの彼女が、そこにいた。
呼んでいた、呼んでいた。
妻によく似た声が、クリスのことを呼んでいた。
五発あった銃弾は、すべて外れた。どうしても彼女に当てられなかった。
涙があふれて止まらない。
魔物が暗がりから、ゆっくりと近づいてくる。
白い腕。妻のそれによく似た、白い腕の抱擁を、クリスは静かに受け入れた。
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