炎天下の日差しの下、制服姿の少女が校門に背を向け立っていた。
白い半袖のワイシャツが涼しげな夏服で、首筋にはじんわりと汗が滲んでいる。それはどう見ても今から下校をする学生の姿であり、事実それは間違いではなかった。
何故か彼女が腕を組んで仁王立ちをしている、という点を除けば。
──いきますっ。
気合十分にそう呟いた少女は、不意に膝を曲げ、思い切り飛び上がった。宙に浮いた少女の足が捉える着地点は、既に花を散らしてしまった桜の木の影。着地して間髪入れずに再び飛び上がり、電柱の裏へ。そのまま、とんっとんっと軽快にステップを踏み、塀の真横で両足を揃えて着地。
──完璧。
上機嫌に少女は次の標的を探す。そして目についた足場へとその足をのばしていく。
立派な民家の塀。
止めてある自転車の裏。
細い電線の下。
居眠り中の猫の側。
その時、突然すぐ近くに飛びつかれ、驚いた猫が逃げ出してしまった。足場を失った彼女は慌てて飛び上がるが、その体勢は不安定だ。危うく倒れそうになるが、なんとか空中で体勢を立て直し、片足で電柱の影を捉える。
──ルールその一。影のないところを踏んだら、アウト。
冷や汗を拭って、一呼吸。幸いこの先は民家が連なった細い路地で、少女の目の前にはひんやりとしたアスファルトがしばらく続いていた。
先ほどまでの跳躍の連続で乱れた呼吸を正しながら、日の光の届かない涼しい空間を、ゆっくりと歩いていく。
──ルールその二。影なら物でも人でも、何でも良し。
夏場の日陰とは不思議なもので、日向とは空気感が全く違う。強い日差しで滲んだ汗を静かな風が撫で、乾かしていった。
影となる路地を抜けて、再び視界が開ける。ようやく落ち着いた呼吸を一旦止め、ふぅ、と深呼吸。
次の足場はなかなかに遠い。道を挟んで向こう側に、ひっそりと立つ柊の木が作る小さな影があるだけだ。
──そこまで一気に、飛ぶ。
少女はゆっくりと三歩下がり、首を捻ってもう一歩下がってから、勢い良く駆け出した。
思い切り助走をつけた少女が、路地の影から飛び出す。
──届けっ!
とん、と宙に浮いた靴のつま先が影を捉え、その勢いのまま少女は影に踏み込んだ。
──よし。セーフ。
満足げに自分の足元を包む黒色を眺める少女。難所をくぐり抜けた時ほど気持ちの良いものはない。額に浮いた汗を、腕でゆっくりと拭った。
しかし、本番はここからだ。気を抜くわけにはいかない。
──日が当たっているところは全部、マグマなんだから。
自分にそう言い聞かせ、再び少女は跳躍した。
順調に進んでいた少女の足が、不意に止まった。場所は、公園の前。大きく開けたその空間には、少女が着地できそうな足場はほぼ存在していなかった。
むむ、と少女は周囲を睨みつける。腕組みをして、首を捻ってみる。一度目を瞑って、再び大きく開いてみる。しばらく少女は奇妙な一人芸を続けていたが、当然状況は一向に変わらなかった。
──いつもだったら…。
背の高い人影がふっと脳裏をよぎってしまうが、慌てて彼女は首を振る。
──ルールその三。己には厳しく。
とは言え、どうしたものか。
公園の地面は細かい砂なので、下手に思い切りジャンプすると無様に尻餅をついてしまかもしれない。もしもそんなところを見られたら、最悪だ。
そんなことを考えていると、突然ぽーんとサッカーボールが転がってきた。公園で遊んでいた少年達が蹴っ飛ばしたものだろう。少女の目の前でころころと転がり、そのまま止まった。
──これは、ラッキーです。
降って湧いた幸運に内心にやりとしつつ、少女はボールの作る丸い影を足場にして滑り台の影まで飛びすさった。そこから鉄棒、ブランコ、と順々に遊具を足場にして、最後にぐるぐる回るジャングルジムのような遊具を踏んで公園を抜ける。
取って下さいー、という声が後ろから聞こえたような気もしたが、今はそれどころではないのだ。少女は前だけを見据え、先に進んで行った。
今度は道を遮る大きな川に辿り着いた。すぐ上流にはちょっとした滝があり、高さはそれほどでもないもののごうごうと迫力のある音を出している。
夏はこの川で水遊びをすると冷たくて気持ちが良いんだよな、と昔に思いが耽った少女は、しかしすぐに首を横にふる。
昔は良い遊び場だったこの川も、今や少女の道を阻む立派な敵だ。気を抜いてはいけない。
なんと言っても、この川にかかっている橋に存在する足場は、手すりの柵が作っている細長い影だけなのだ。これはなかなかの難所である。
これまで難所を通る時には何度もしてきたように、一旦深呼吸。
──ここは一気に、駆け抜ける。
柵は3つごとに少し太い軸がある。その影をつま先だけで捉え、すぐに次の軸へと移るのだ。
橋の長さは、およそ50m。なかなかの長丁場だが、途中で立ち止まる余裕はない。
そうプランを立てて、少女は駆け出した。
とんっとんっとリズムよく、地面に等間隔に映った柵を踏んでいく。
思ったよりも集中力がいる。つま先で着地しないと影からはみ出てしまうため、ピンポイントで影を捉えないとならないのだ。そのうえこの暑さの中、跳躍しながらの50mダッシュだ。少女はもう汗だくだった。
半分ほど過ぎた辺りから表れてきた疲れが、集中力を鈍らせていく。そして、影の上に落ちている石を踏みつけてしまった時には、もう遅かった。
あっと言う間にバランスが崩れる少女の体。なんとか片足をついて転倒は回避したものの、その片足がついたのは明らかにマグマの上だった。
「……………」
少女は右を見て
「………」
左を見て
「…………」
右足が乗っかった地面を見て
「…………」
じっと地面を睨みつけたまま、少女は考える。
考えて、考えて、きっと勢い良く顔をあげると、
──ルールその四。片足が影を踏んでいれば、セーフ。
そう付け足した。
川を渡ってしまえば、残りはあと少し。少女は後ろを振り返り、そこに人気がないのを確認すると、ため息をついて歩調を緩める。
今歩いているのはアパート団地だ。格子上に同じ形の建物が並んでおり、その間の細い道路は直角に交差している。住人しか使わなかったこの道路に車通りはほとんどなく、縄跳びや鬼ごっこの絶好の遊び場だったことを思い出す。しかし、数年前に立ち退きがあり、今や廃墟と言って差し支えないほど廃れていた。
しん、とした空間。日も大分傾き、建物が作る影は細長く伸びていた。人とぶつかる心配もないので、少女は自分の足元だけを見つめて歩いていく。
落ち葉。潰れた吸い殻。カラフルなチョークの跡。
こうして見ると、地面は多くのものを吸収している。
なんとなく、この場所の記憶を覗き込んでいるような気分だった。アスファルトの裂け目から顔を出しているタンポポの綿毛は、いつからここにいるのだろうか。うっかり踏んでしまいそうなほど小さな姿だが、人通りの少ないここにおいてはまるで道の王様のようだった。
ぼんやりと取り留めのない思考に耽っていると、影の先が途切れていることに気がつく。顔を上げた少女は、ぎょっとした。
次の影が明らかに、遠い。影が長いことが災いして、建物同士の間がひどく広くなっているのだ。
──まさか、最後にこんな伏兵がいたとは…。
ぼんやりとしていた気分を切り替え、他にルートはないか、と辺りを見回す。
──あそこの木を踏んで、それから…いやいやそれじゃ次がない。じゃあそこの街灯の影を使って?…ダメだ、そっちは逆方向だ。
むむむむ、とかつてないほど頭を働かせる。
いくつものルートを考えた結果、少女が辿り着いた結論は、
──正面突破、あるのみ!
もうこうなったらまっすぐ飛んでみるしかない。当たって砕けろだ。
じり、と少しずつ後ずさりをして、助走のための歩幅を確保する。
深呼吸を、一つ。しっかりと助走をつけて、影の上に飛びついた。
疲労は回復。助走は十分。踏み込みも良好。確かに条件は完璧だった。それでも、最高点に達した辺りで気づいてしまう。
──あとちょっと、届かない…‼︎
「なにやってんだよ、お前は。」
とん、と声が響いた。
振り返ると、そこには呆れ顔の少年の姿。少女はゆっくりと立ち上がり、少し考えてから、首を傾げる。
「何してるように見える?」
「暇してるように見える。」
少年はすぐさまそう返す。表情は完全に呆れ顔のままだ。そんな彼に、少女はわざとらしく膨れっ面をしてみせた。
「暇じゃないですよーだ。」
「どうだか。」
しれっと切り返す少年。少女の言葉が予め分かっていたかのように。そのいつも通りの態度に少女はふふ、と笑みを浮かべた。
「てゆか」
少女は自分の足元を指差して、言う。
「分かってたくせに。」
指を差したその先、少女の両足は、背の高い少年が作る影をしっかりと踏みしめていた。少年はぽりぽりと頭を掻き、ぷいっとそっぽを向くと、
「帰るぞ。」
とだけ返した。
「うんっ。」
そう言って、少年の後を少女が追う。
「遅かったね。」
「ん、少し長引いた。」
「お疲れ様。」
一言二言交わしながら、少年の左隣に並んで、歩調を合わせる少女。
その足は、彼の影を踏みしめたまま。
──ルールその五。君の隣なら、無敵。
コメント一覧
はじめまして、なかまくらと申します。
街並みをそんなにひとつひとつちゃんと考えてあるいたことってなかったな、と思いました。描写が丁寧ですね。
ちょっと読者を引き込む力が弱いかもしれません^^; もっと彼女が影を踏むことに対するこだわりとか、動機があるといいのかもしれません。