放課後の彼女

  • 超短編 3,000文字
  • 日常

  • 著者: しんかず
  • ――死にたくないなぁ。

    それが彼女の口癖だった。

    ――また始まった。

    それに対する俺の反応は決まって冷めたものだった。

    ――そんなに冷たくするなよ、死にたくなるだろ。

    ――今死にたくないって言ったばっかじゃねえか。

    俺がそういうと彼女…古都峯紫翠(ことみねしすい)はにやりと笑った。

    ――言ったさ。だけど人間あまりに辛い出来事に直面してしまったとき、自ら死を選ぶこともあり得るのさ。これは私たち人間がはるか昔に鼠だった時と変わりない、DNAに刻まれた自死機能なんだ。

    ――いったいお前は何を言っておるのだ。死にたくなるようなことなんて順風満帆なお前の人生にあるわけないだろ。

    ――あるさ。君に冷たくされたら私は死にたくなるほど辛いんだ。

    冗談か本気か……、まぁ冗談なのだろう。
    彼女との会話に意味はなく、意義もない。
    ただその時の感情を吐露する言葉に反応する意味を見出せなかったため、その言葉を無視した。
    高校生活最後の年。
    俺は地元の大学に推薦入学がほぼ決定していて、紫翠は都内の難関校への入学を目指して勉強中。
    しかし最近の模試ではA判定。
    このままいけば合格は確実だろうと教師も言っていた。
    まぁ、それでも苦悩するのが受験生。
    多少感傷的になるのも仕方ない。
    紫翠はひとしきり死にたい、死にたくないと言った後、ごろんと床に寝転がった。

    ――おい。そんなところに寝たら汚いぞ。

    紫翠はじろりと俺を睨み付け、先ほど無視した仕返しとばかりにそっぽを向いた。
    ……こいつ不貞腐れてやがる。
    俺はため息を吐いて教科書に視線を戻す。

    10月。
    外はすでに肌寒く、短い秋の夕暮れは早めの冬の到来を呼びかける。
    茜色の空。
    教室の中が朱に染まる。
    教室には俺と紫翠の二人しかいない。
    昼の喧騒が嘘のように静かだ。
    ほとんどの生徒は課外の部活も終えて下校している。
    ちらほらとグラウンドに人影が見えるが、じきに彼らも帰宅することだろう。

    不意に床に寝ていた紫翠が上体を起こす。

    ――教室の床は固くて冷たいな。

    自分の肩を抱きながら愚痴る紫翠。

    ーー当たり前だろアホめ。

    俺は溜息を吐きながら教科書を閉じた。
    そろそろ帰宅しよう。
    今日の授業の復習も一通り終わったことだしな。

    鞄に教科書を仕舞い、立ち上がる。
    そのまま教室から出ようとしたところで、はたと立ち止まった。

    ーーほら、帰るぞ。

    これが俺たちの日常だった。
    ずっと続いてきた変わらない毎日。
    始まりなど覚えていない。
    いつからか俺と紫翠は放課後、共に帰宅するようになった。
    小学、中学、高校。
    家が比較的近いことだけを理由に挙げるには、少しばかり永い。

    ーーもう帰るのかい?

    けれども今日は、その「いつも」とは少し違っていた。

    ーーああ。もう日も沈む。今から帰れば夕飯には間に合うはずなんでな。

    その言葉に紫翠は一瞬何かを考えるような表情をしてーー、次の瞬間にはニヤリと笑った。

    ーーまぁ、そんなに慌てることもないだろう。どうだい?もう少し放課後の学校というものを満喫しようじゃないか。

    紫翠の気まぐれは珍しいことじゃない。
    たまにだが、こうした提案も過去にあった。

    ――だからほら…。君もこっちで私と一緒に寝転がろうぜ。

    ――するわけないだろ。何を言ってるんだお前は。

    ――誰もいない教室で普段だったら絶対にしないことをするのはなかなかに刺激的だよ。誰も見ていないけれど、誰かが見ているかもしれない…。そのシチュレーションに君は興奮しないのかい?

    ーー生憎と俺はお前みたいに変態じゃない…。それに誰も見てないわけじゃないだろ。

    ――?

    ーー俺が見てる。

    俺の言葉に珍しくきょとんとした表情を見せる紫翠。

    紫翠の、その年相応の子供っぽい仕草にどきりとした。
    大きくなった心臓の鼓動を悟られないよう気をつける。

    ――ああ。君にならいいさ。君になら私の全てを見せてあげられるとも。

    そんな俺の努力を嘲笑うかのように、紫翠はくすくすと笑う。
    けれど不思議と不快には感じない。

    ーー仕方ねえな。少しだけだぞ。

    俺は結局、紫翠の提案を受け入れた。

    ーーなんだ。床には寝ないのかい?

    ーー制服汚れるから嫌だ。

    椅子に座り、読みかけの小説を取り出す。
    紫翠は机を挟んで向かいに座る。
    パラパラとページを捲るが、内容が全く頭に入ってこない。
    目の前の少女に意識が向いてしまう。

    ーー俺の顔見てもつまらねえだろ。

    じっと俺を見つめる視線に耐え切れず、声を掛ける。

    ーー楽しいさ。君と過ごす時間は私にとって特別だから。

    いつもと同じ調子で返事が返ってくる。
    何も変わらない。
    いつも通りだ。
    これまでもこれからも、俺たちはきっといつも通りだ。

    ーー私は君が好きだ。

    そう、いつもの調子で言われた言葉に俺は反応が遅れた。

    ーー君と過ごす時間、全てが私にとって特別な時間なんだ。私の心の中は君でほとんど占拠されている。

    ーーな……にを。

    絶句するーー、ということを初めて体験した。
    頭の中が真っ白になって何も考えられなかった。
    その間にも紫翠は矢継ぎ早に過去の思い出を語っていく。

    ーー初めて出会ったときのこと。

    ーー互いのことを語り合ったこと。

    ーー共に遊んだこと。

    ーー励ましあったこと。

    ーー喧嘩したこと。

    ーー仲直りしたこと。

    ーーまた喧嘩して二人して泣いたこと。

    ーー謝りあって、また泣いたこと。

    ーー日々の何気ない会話。

    意味のない、意義のない会話だけれども、彼女にとっては特別だった。

    ーーいっそ大学も君と同じところへと思ったけれど、君が本気で怒るから……、今の大学に決めたよ。

    当たり前だ。
    そんなことがバレれば紫翠も俺も、教師と紫翠の両親に殺される。

    ーーけれどこの関係も、私たちが高校を卒業したら終わってしまうのかな。

    ポツリと漏れた言葉。
    寂しいと、いつもと変わらない表情で彼女はーー。

    ーー何を言ってるんだお前は。

    あまりに勝手な物言いに頭にきた。
    勝手に終わらすな。
    お前にとっての特別は俺にとっての日常でもあるんだよ。
    たしかに環境は変わるし、今までみたいに会えないかもしれない。
    けれどそれは決して終わりなんかじゃない。
    俺たちがこの先どんな風に生きていったってそれは今の俺たちの延長線上にあるものだ。

    ーー高校卒業する程度で俺がお前のこと忘れると思ってるのが腹立つ。というかやり直させろ。

    ーー?何を言って……。

    ーー俺が告白するから、さっきの取り消せってんだよ!

    思わず声が大きくなる。
    紫翠が目を白黒させながら後ずさる。
    ……あぁ、くそっ。
    こいつの突然の告白に引っ張られた。
    こんなはずじゃなかったのに……。

    ーーや……、やだ。

    ーーは?

    まさかの反抗。
    そのうえ、夕日でわからなかったが、紫翠の頬は真っ赤に紅潮し、眼は潤んでいる。
    ……こいつテンパってやがる。
    ふざけんな!
    こんなところで俺の告白を潰されてたまるか。

    ーー俺の方がお前のことを好なんだから、俺が言うべきだろ!だから撤回しろ!

    ーーな……っ。君、それは横暴だぞ!それにこういうのは早い者勝ちだろ!いつまで経っても言わない君が悪いっ。どれだけ私が待ったと思ってるんだ!あまりに何もなさすぎて、なんとも思われてないんじゃないかと不安だったんだぞ!

    ーー好きでもないやつと9年間も過ごすか!どんだけ鈍感なんだお前は!!

    二人して大声で喚き合う。
    高校卒業まで残り半年。
    この日、近いようで遠いようで、やっぱり近かった二人の距離がようやく交わった。

    これは日常の中にある一組の男女の他愛ないお話。
    これから彼らがどうなるか、それはまた別の機会に。

    【投稿者: しんかず】

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