線香を嗅ぎながら

  • 超短編 892文字
  • 日常

  • 著者: 古賀


  • 「くそあつい!」
     一声叫んで、叔父さんは学生服のまま畳に倒れ込んだ。
     制服。日焼け。傷んだ鞄。
     毎夏帰省するたびに、ぼくはこの、さほど年の離れていない叔父を見る。
     去年より、すこしだけ背が伸びたようだけれど、ぼくはもっと伸びているから、身長差はすこし縮んだくらいだ。
     叔父さんは高校二年生で、そろそろ進路を決めないと、と言われているのをきのう聞いた。
     叔父さんは、叔父さん、と呼ばれると、絶妙に嫌な顔をする。
    「ねえ」
     あぶらぜみとかいう蝉が、じいじいと空気を震わせる。
    「なんだ」
    「麦茶、飲んでいい?」
    「いいけど俺のもくれると嬉しい」
    「分かった」
     勝手を知らない親の実家で、ぼくは叔父に麦茶を出した。
     叔父さんは景気よく喉を鳴らして一気に飲み干した。
    「別に麦茶くらい勝手に飲んでも誰も怒んねーぞ」
    「でも一応」
    「ガキが遠慮してんな」
    「叔父さんはひとの家に行かないから」
     あ。
     でも、お兄さん、と呼ぶのも、何かが違う気がしたし。
     ほう? と言いたげに持ち上げられた眉を確認して、ぼくは困った顔をしたと思う。
    「慎」
    「はい」
    「おれはお前を慎っつーだろ。お前もおれを七彦って呼べばいい」
     しちひこ。
     そのすこし変わった名を呼ぶことに、なんとなく、ほんとうになんとなくだけれど、照れがあって。
     だってその響きを、ぼくはとても好きで仕方がなかったものだから。
    「……七彦叔父さん」
    「いい加減にしねえと怒るぞまじで」
     照れから逃げ続けるのは、そろそろやめたいのに。
    「くっそ老けた気になるからやめろ」
    「七彦さん」
    「それもなんかな」
    「七彦兄さん?」
    「おう分かった、さん付けが嫌みてえだ」
     どうしろと。
    「…………にーちゃん」
    「それだ、気取りがなくていい」
     いちどきに距離が縮まってしまったようで、半ば自棄でひねり出した、にーちゃん、という呼び方は、二度としなかった。
     けれどそれから叔父さんは、ぼくに対して、にーちゃんが、にーちゃんは、にーちゃんがよ、と言うようになってしまった。
     あれから六十年経ったけれど、あのころの叔父さんの、にーちゃん、と己自身を呼ぶ声音は、今でも鮮明に思い出せる。
     ぼくはあのときの他に、誰かを、にーちゃん、と呼んだことはない。

    【投稿者: 古賀】

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    コメント一覧 

    1. 1.

      ヒヒヒ

      ひゃー、淡い思い出ですね。
      たかが呼び方、されど呼び方。
      ある意味その人たちの関係を象徴するものだったりするんですよね。


    2. 2.

      けにお21

      味わいある、良作だと思います。

      さて、本作は回想でのお話しなのかな。

      題名は、「線香を嗅ぎながら」。

      60年経てば、もう叔父さんはお亡くなっていそう。

      主人公は叔父さんの仏壇の前で、線香の臭いを嗅いで、叔父のことを思い出したのかな。そこでのお話だったのかな。

      と勝手な想像をしました。

      また、作品内、夏を感じさせる描写が多々ありました。それもお上手です!


    3. 3.

      なかまくら

      血縁というのは、身内だけどよそよそしいという不思議な状況を生み出すのかもしれませんね。
      その関係が不意にすごく近くなる。そんな一幕を観たような気がしました。
      親戚が線香だけのつながりになっていくのかなあ、とも思いました。


    4. 4.

      結城沙月

      血縁でよくある話ですね。
      呼び名と言う内容が生きていて面白かったです。
      最後の呼んだことがない、鮮明に覚えているのも、それだけ印象に残っていたのでしょうね。
      失礼しました。