雨の体温

  • 超短編 1,600文字
  • 恋愛

  • 著者: あおば
  • 「なんでお仕事するの?」
    昔、父に聞いたことがある。
    その答えは父の口からだけではなく、中学生のときに受けたキャリア教育の中でも散々聞かされた。
    「家族に幸せになってほしいからだよ」

    その質問もこの人にすれば、同じような答えが返ってくるだろうか。

    ぽつり、ぽつり、とキートンのスーツにしみが増えていく。しみ同士が重なって大きく情けないしみになる。
    2人は駅の真ん前で突っ立っていた。
    ____だからね、楓。
    いつも通りに優しく諭す彼が、降り出した雨に焦りを見せ始めた。
    彼の中で、ここで別れを告げて、泣き出した私に優しくキスをする。そして2秒抱きしめたあと家に帰る、というストーリーができていたのかもしれない。
    なんとかストーリーに沿わせようとして土砂降りの雨の中私を宥める彼は、駅の光を受けてとても滑稽だ。

    ____だからね、楓。さよならをしよう。

    頬に当てられた手。キスをするのは早いだろう。私はまだ泣いていない。

    ……そんなに奥さんの元へ帰りたいの?

    手をそっと外した。
    雨でぼやけていく彼を、私は冷たく見つめる。

    そんなに奥さんの元へ帰りたいなら、初めからこんな関係を拒んだらよかったじゃない。

    この言葉は言えなかった。
    でも、この天気予報も確認して来ないような先の見えない男でも、私の伝えたいことは分かっただろう。
    彼が黙ったのが分かる。
    私がこうして引き止めてる間にも、彼の妻と子供は帰りを待っている。その家族が幸せになるよう稼がれた金で、私は貢がれていた。バッグも、欲しいと言ったオーデコロンも、ディナーも。全部全部。
    2人が出会った経緯はもう忘れた。でも出会った頃は、夜景のように明るい幸せを私は感じていた。彼もそう。別れ際のいつものキスは曇りのない幸せだった。
    彼に家族がいる、と知るまでは。
    あの時の彼の諭す顔はとても腹立たしいものだった。なんとかタブーを濁そうとしているような____いや、まず独身と嘘をついて私と関係を持ったことに苛立った。
    そして今夜、彼に別れを告げられ、形容詞では言えないくらい情が混沌としている。怒りとか、悲しみとか。きっとそういうものじゃない。

    雨足が強まった。彼のスーツはもはや違う色に変化している。しみが全てを覆ったようだ。
    終電まであと3分。

    ……ねえ、もう行きなよ。

    そう言うと彼が小さな声で何か呟いたけれど、雨の轟音で聞こえない。聞きたくない。
    びしょ濡れのバックを握ってない右手に力が入る。
    断ち切らなきなきゃ。この関係も、思い出も。全部振り切らねば。

    ……私、幸せだったから。あなたがこの鞄をくれた時も、初めて夜景を見た時も、初めてキスしたときも……今でもあの時の体温が残ってる。

    ____かえ、で?

    ……でもね、私たちのあの時の体温は“罪”なの。あなたの奥さんが知ればさぞかし悲しむでしょうね。あなたはそれを知ってて私と関係を持った。そうでしょう?

    言わなければ。伝えなければ。
    思い出を地面に叩きつけるように叫ぶ。

    ……あなたが一瞬でも奥さんより私を優先してくれた、それだけもう十分だった。私に悔いはないから、今すぐ立ち去って!

    勢いに任せて彼の頬を打った。息が上がっている。私の体の熱を散らすように、雨がさらに強くなる。どこかで稲妻が走っている。
    彼は頬を押さえる。そして目を細めてパクパクと口を動かした。

    ____ごめんね、と。

    キートンのスーツは、情けなく駅の中へ消えていった。
    雨か涙か、雫が頬を伝う。
    気が付けば泣いていた。ビルの街に、たった1人で。結局彼は私にキスをしなかった。

    ____なんだ、哀しいじゃん。

    冷静に考えれば、形容詞一つで言えてしまえるようなちっぽけな感情であった。携帯に触れ、時刻を確認する。
    彼はどんな気持ちで ごめんね と言ったのだろう。もう電車は発車したのだろうか。
    私は唇を撫でる。
    まだ彼へ未練が捨てられない自分に、笑った。いや、笑いながら泣いていた。
    連絡先の彼の名前は、まだ消せずにいる。

    【投稿者: あおば】

    一覧に戻る

    コメント一覧 

    1. 1.

      なかまくら

      冷静にああやって別れよう、こうやって別れよう・・・なんて思惑をもって、
      最後にキスをして別れたら綺麗で素敵じゃないか。なんて、そんなことを考えている人の思い通りになんて絶対ならないですよね。なってたまるかって感じもします。
      その結末としてのビンタでの別れ。ただ、そのせいで、未練が残る・・・。なんとも上手くいかないものですよね^^;


    2. 2.

      あおば

      なかまくらさん
      けにお21さん
      コメントありがとうございます。

      実際ドラマみたいな潔くて美しい分かれはないんだろうなあ、と思いながら書きました。
      分かれて寂しいような、寂しくないような。女ならではの揺れる気持ちが表現したかったのですが、まだまだ経験と勉強不足だったので精進していきたいと思います(*´ `*)

      経験者ではないです…笑笑


    3. 3.

      けにお21

      浮気男との終わり。

      不毛な恋愛の終わりとか、こんな感じかも、とか思った。

      経験者じゃないか?、と思われる生々しさでした!


    4. 4.

      鉄工所

      初めまして

      雨粒に多さが体温を奪っていきますね。
      そして泪が傷心の傷を洗い流します。
      街の彩りが少なくなる季節

      別れって、びしょ濡れでいて良いと思います、経験値を積めば少しは濡れなくなります故

      文章はとりとめの無い方が絵になると思います。