腹の幼子

  • 超短編 1,240文字
  • 日常

  • 著者: 古賀

  • 【掌編連作三本】

     水が欲しくて目が覚めた。
     ガキの自分が立っていた。
     まだひとりなの。
     水もひとりでくまなきゃいけないの。
     誰もぼくにやさしくしてくれないの。
     まだ生きてるの。
     痛烈に喉がひりついた。
     ベッドから降りる。洗い物を残したシンクに向かって水を飲む。
    「うるせえよ、ガキが」
     ようやく一言言い返す。
     ああそうだ、まだひとりだ。誰も傍にはいてくれない。
     水くらいひとりでくむもんだ、お前でさえ出来るだろう。
     俺にやさしいのは俺ひとりで十分なんじゃねえのか。
     ──まだ生きてるぜ。
     ねばつく夜にはガキの自分が脳味噌を食い潰していく。
    「生きてるからな」
     吐き捨てて、再び布団に潜る。
     生きることがあのころへの、あのころの自分へのただひとつの復讐だと、思っていた。
     思いながら、眠った。
     ねばつく夜には、こうして正気を忘れる。



     喉が渇いて、ぼくは目を開いた。
     夜はまだ深い。
     喉は渇いていたけれど、ぼくは布団から起き上がろうとしなかった。
     夜歩くと、蛇が出るから。
     それは本の題名と口笛の混ざった思い込みだと知っていたけれど、ぼくは暗い中で何かをしようとは思わない。
     瞼の裏を、うすずみのような、こどもの影が過る。
     大丈夫だよ。
     ぼくはもうおとなだよ。
     きみのように、夜歩いたりはしないよ。
     蛇を誘い出すような真似はしないんだよ。
     きみのように、ばかじゃあないんだ。
     だからもう、おやすみ。
     見張っていなくたって、大丈夫だから。
     うすずみに十分に言い聞かせてから、布団から指だけ出して、照明のリモコンを手に取った。
     しらじらとした明かりがひろがるぼくの部屋に、あんなものがいるはずなんてない。
     だから大丈夫。大丈夫。大丈夫なんだよ。
     今度は自分を説き伏せて、それからようやく水を飲みにベッドを降りた。
     うすずみのこどものかかとには、蛇の牙痕がついている。



    「……干からびる」
     夜気はじったりと重く布団にのしかかる。
     これだけ湿っているのにどうして喉が渇くのだろう。
     独り言を言っても無駄なのは分かっている。
    「あぁ!」
     小声で叫んで飛び起きた。
     大学生になってはじめたひとり暮らしの部屋には、エアコンというものがなかったのだ。
     おれは再びきちんとねむるために、というよりも渇望のままに、冷蔵庫のドアを開いて清涼飲料水を一気飲みした。
     はあ、とおおきく息をつく。
     アルバイトをして買えばいいとは思うのだが、生憎先日面接に落ちてしまったばかりだ。
     親に頼るなどふざけるなという感じである。
     折角顔を合わせなくてよくなったのに。
     冷蔵庫のドアを閉じると、そこにあったのは暗い静寂だった。
     その静寂を、おれははじめてこの部屋で見た。
     こころをノックされた気がして、ふと笑った。
     心配すんなって。
     きつかったら、逃げてもいいんだぜ。
     おれはちゃあんとおとなになれた。
     お前はちゃあんとおとなになれた。
     怒声も罵声もここまでは届かない。
     だから安心しろよ、小さい俺。
     ベッドに戻ろうとして、求人誌を踏んで滑ってすっ転げて痣を作ったけれど、あとで同期に笑ってもらおうと、暗闇でくつくつ笑いをこらえただけだった。

    【投稿者: 古賀】

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    コメント一覧 

    1. 1.

      けにお21

      生きてることが、幼い頃の自分への復讐。

      自分の腹のなかに、その幼い頃の自分を飼っている、ってことでしょうか。そして、時々出て来てくる。

      さて、いるはずがない人が見えて、対話するのは、過去に何かがあったのかな?と思いました。

      キーワードとしては、度々出てくる蛇なのでしょうか。主人公は、昔、夜に蛇に咬まれたのでしょうか。それが原因で、理由で、幼い頃の自分が見えて、対話するのでしょうか。

      謎を感じた作品でした。