この部屋には時間の流れというものが無いようだ。今が何年何月何日、何時何分なのか、僕は知らない。時間を計る時計も年月を確認するカレンダーもないのだから、当然である。だからと言って、無いと困ることではない。僕にとって、今が何時なのか気になることではないからだ。僕が今、気になっていることは、別のところにある。そう、この空間と僕が繰り返しみる夢の事だ。
ここでの生活にも漸く慣れてきた。いや、この空間に馴染んできたと言うべきなのかもしれない。時計やカレンダーがないこともだが、ドアがないことにも。自分がいつから此処にいるのさえも。真っ白な空間と窓から見える塗り潰された蒼は、既に見慣れた景色となってしまった。しかし、不思議と飽きることもないし、此処から「出たい」と思ったこともない。まさに不思議すぎる。僕は、どこか可笑しいのかも知れない。
芳醇な香りが突然漂い、ふと、窓から視線を反らすとテーブルの上に三冊の本と熱々の珈琲が注がれたコップが置かれていた。そう、この部屋はいつの間にか僕好みの本や食べのも等がテーブルに置かれる。そして、不要になるといつの間にか忽然と姿を消しているのだ。実際に置かれている所も消える所もみたことが無い。いつか、どこからこれらは運ばれてきて、どこへ消えてしまうのか、この謎を解き明かしたいと思う。
「今日は、江戸川乱歩と夢野久作か……」
机に置かれている本の一冊を取り、ぱらりと表紙を捲る。どうやら、見えぬ使用人は僕の趣味を解っているかのようだった。珈琲を飲みながら、活字の世界へと思考を委ねた。
どれくらい経ったのだろうか。とうとう最後の一冊を読み終えてしまった。しかし、窓の外は相も変わらずの蒼さだった。読む本が無くなって手持無沙汰の僕は、また窓の外をぼぉっと眺めていた。そして再び思考へと潜る。繰り返し見る夢の中の少女は何者なのか。どうして僕は此処にいるのか、彼女とどう関係があるのか……
いつの間にか、彼女のことばかり考えている僕だった。
「会ってみたいなぁ……」
ぼそっと、願望が僕の口から零れ落ちた。僕以外誰も居ないのに何言っているんだか。そう自分を卑下しようとした瞬間、
「誰に会いたいの?」
僕以外の声が鼓膜を震えさせた。予期しなかった事態に僕の鼓動は、ドクドクと激しく脈打つ。そろっと声がした方へ視線を向けると、窓枠に真っ白な少女が腰かけていた。足が届かないのか、ぶらぶらと揺れていた。
―――彼女だ。
驚きのあまり声が出なかった。呼吸をすることも忘れて、じっと彼女を見つめてしまった。そんな僕に構わず少女は鈴を鳴らすように
「ねぇ、会ってみたいひとって誰?」
尚も問いかけてくる。その目は好奇心に満ちてきらきらと輝いていた。僕にはその輝きが眩しくて、すっと俯く。
「えっと……」
素直に、「君に会いたかった」なんて恥ずかしくて言えるはずがなかった。ギュッと上掛け布団を握りしめて、上手い言い回しを考えていた。返答に困ってもごもごしている僕に飽きたのか、彼女はおもむろにテーブルに置かれていた本に手を伸ばした。ぱらぱらと頁を捲る音だけが響く。ちらりと視線を上げ、彼女を盗み見る。
「乱歩と夢久……好きなの?」
「う、うん。」
「そっかぁ。私もね、大好きなの。同じように好きな人が居て嬉しい。」
ぱぁっと花が咲いたような笑顔だった。とても眩しくて、くらりと眩暈がした。
それから箍が外れたように、彼女と好きな本やものについて喋った。
驚くことになんと、彼女と僕の好みは全く同じだったようだ。僕以外の他人と会話したことが嬉しかったのか、はたまた同じ趣味の人に出会えた事が嬉しかったのか、僕は延々と熱く語ったのだった。そして、喋り疲れたのか何時の間にか眠ってしまったようだ。テーブルの上の本は既に無く、一枚のメモが置かれていた。
『また、遊びに来るね。』
綺麗な字でそう書かれていた。僕は、メモを抱きしめて再び眠りについた。
今日は、いい夢をみられそうだ……そんな気がしたんだ。
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