灰かぶりの魔女

  • 超短編 3,135文字
  • 祭り

  • 著者:1: 3: ヒヒヒ
  •  彼女の肌が白いのは、決して、神に愛されたからではない。
     彼女の肌は、白い灰にまみれている。木炭を燃やし、燃え尽きた後も燃やし、中にあった有益なもの全てを焼き尽くした後の、そういう意味での白さ。灰かぶりの魔女と、人は呼ぶ。真っ白な肌に黒く縮れた髪、そして異形の目。本来白くあるべきところが黒く、黒くあるべき眼は藍い。そういう目を持つ魔女。
    「本当ならば」と、島の男たちは言う。「あの女の側に行きたくはないんだが」
    「だけど仕方ない」と、女たちは言う。「火を起こせるのはあの者だけなのだから」
     そこは西の果て、名前も奪われた孤独な島。かつて神々に挑み、敗れ、捨てられた、そういう人々の暮らす島。神に呪われたその地では、炎は光を発しない。火は立たない。灯りは点かない。ただ、魔女の灯す暗い炎だけが、僅かな熱を与えてくれる。この島で火を起こすことができるのはただ一人、魔女だけなのだ。
     人々に請われて、魔女は今日も火を起こす。炉の前に立ち、フードを脱いで、灰にまみれた白くて細い腕をはだける。目を瞑り、苦しげに呻く。彼女が両の手の平をこすり合わせると、その掌から火が生れる。光を吸い込む暗い炎。冷めた炉の中に火が灯り、島の者はほっと息をつく。
     島民たちはたいまつに火を移し、暗い炎を持ち帰る。そうして彼らが去ると、魔女の家はしんと静まり返った。同居する者はいない。父は死んだ、母も。兄がいたが、殺された。炉の火を消し、まだ熱を宿す灰の上に身を横たえる。魔女は瞼を閉じた。
     体の中が熱い。神に呪われたその日から、その熱さを忘れたことはない。体中の血管に、赤熱した鉄を流しこまれるような、そういう熱さ。見えない炎。その熱さに比べたら、冷めていく灰など冷たいくらいだ。けれどその冷たさも、島の人々と比べたら。いや、いい。この身体に巣食う熱。それを冷ましてくれるのならば、いくらだって冷たくしてくれればいい。
     ふと外に目をやると、窓の向こうを、親子連れが過ぎてゆく。この呪われた島でさえ、人は生まれ、愛し合う。だが、私が人の暖かみを知ることは二度とない。この、触れればぽろぽろと欠けていく肌を慈しむ人など、一人も居ない。
     炎が燃えている。見えない炎が、心の中で。

     猟師の息子は、人の声よりも鳥のそれを好むたちで、だから、一族が呪われたいきさつをほとんど知らなかった。親たちは何度も言って聞かせたのだが、彼は全く関心を持たなかった。なぜ、みんなが魔女を嫌うのか。彼には魔女の怖さがわからない。彼女を憎む理由がわからない。
     あの人は、そう、あの“人”は、優しい心を持っている。二年前のことだ。新しい弓をもらった彼は、立派な猟師になろうとして森に行き、そこで兎を狙った。食べる気はなかったから、殺す気もなかった。外す気だった。だが、死んでしまった。一撃。一発の矢で死んでしまった。困った彼の前に現れたのが、魔女だ。
    「無意味に殺してしまった。恨みを買った」と彼が言うと「せめて、焼いて食べやろう」と言って、魔女は追悼の言葉を口にした。そして火をくれた。ずいぶんと苦しみながら、彼と兎のために、火をくれたのだ。獲物である兎を慈しむ人など、この島には一人も居ない。ただ一人、あの人を除いては。
     灰かぶりの魔女の名前を、猟師の息子は知らない。
     誰も知らない。灰かぶりの魔女は魔女であって、人ではない。だから名前もない。神に呪われた、神の使い。関わってはいけない。そういう父の言いつけを破って、猟師の息子は魔女を訪ねる。
     口が下手な彼は「火をもらいに来ました」としか言えない。兎のお礼も、言えないままでいる。

     島の娘たちの間で、妙な噂がささやかれ始めた。三月になってからというもの、夜に、山の中腹に何かが見える。あの赤いものは、ひょっとして灯りだろうか。そんなはずはない。この島は、金星の神に呪われている。彼が放った槍が地中深くに刺さっていて、今も、その毒の根を広げ続けている。だからこの島では、炎は燃えない。火が立ったとしても、すぐに消えてしまう。
     だが、もし、本当に。炎が燃えているのなら。
     猟師の息子は幼馴染からうわさを聞くや否や、真夜中の森へと駆け出した。夜闇に紛れる獣など恐れはしない。月が沈み、星々も隠れた。ただ、夜哨(やしょう、夜の見張り)の神である水星だけが、木々の間から、彼が走るのを眺めている。
     もし、本当に火があるのなら。それで魔女を救い出せる。魔女の、あの、日々の辛い勤めから。人々の暮らしには火が欠かせない。その火は、魔女にしか起こせない。それがおかしいのだ。神が定めたことだと父は言う。だが、先祖たちは、神々の理不尽さに抗って立ったのではなかったか。神だろうと何だろうと、おかしいものはおかしい。そんなことも言えないのなら、生まれてきた甲斐がない。
     猟師の息子は走った。疾駆した。今、真っ暗闇の向こうに、赤い光が見えている。呪われた暗い炎ばかり見てきた若者には、それが本当に火であるのかわからない。まっしぐらに進む彼の先を、様々なものが阻む。茨、蛇の尾、鳥の爪、蜘蛛の嘲笑、毒の霧。彼は決して止まらない。
     やがて濃い藍の空に火星が戻ってきて、その次には土星が、そして金星さえ現れた。天空に住まう神々が、地上を見るためやってきたのだ。騒ぎを好む神々が夜空に満ちて、いつしかそこは、輝く星々に埋め尽くされている。天上の騒がしさを怪しんで、島民たちが目を覚ます。
     魔女は人目を忍んで家を出て、川のほとりに立つと、山を見上げた。山腹で木が燃えている。まるで桜の花のよう、枝の先に、かすかな赤い火が揺れている。それが冥王星の仕業であることに、彼女はすぐに気づいた。
     あの悪童、人の心を持たぬ鬼、かつてあいつが仕掛けたいたずらが、巡り巡って神の怒りを呼んだのだ。だが、ああ、どうして、どうしてあの赤い火は、こうも目を惹くのだろう。どうして私は、あの山中を駆ける、誰のものともわからぬ影を、じっと見つめているのだろう。

     今や猟師の息子の恋心は、天空の誰もが知るところとなっている。意地悪な神々が彼に試練を課した――唸る獅子、ほほ笑む美女に、笑う黄金――どれ一つとして若者を止めることはできなかった。今では天上の全員が、固唾を飲んで見守っている。
     彼が木の根元にたどり着き、火を灯す枝に触れたとき、彼の顔面を光が照らした。赤い火の、暖かな光。それを手にしたとき、彼は最愛の人の顔を思い浮かべた。
     灰かぶりの魔女。いや、もはや、彼女は魔女ではない。もう二度と、呪われた火を生まずに済むのだから。ああ、どうして俺は、あの人に名前を聞かなかったのだろう? 今すぐにでも呼んで、知らせてあげたいのに。いいや、違う、彼女には名前がない。島民は皆、彼女を人外として扱ってきた。
     それならば。名付けてやればいいのだ。俺が。
     うんと素敵な名前がいい。聞いただけで心が暖かくなるような、そんな名前がいい。そうだ、灰の中から蘇る花がある。真っ白になった灰、もはや何一つ価値がなく、誰一人として顧みない、そういう灰の中から生まれる花が。何度滅ぼされても蘇る、そういう花だ。
     彼はその名を呼んだ。大きな声で、遠く離れた村へ向かって。真っ暗闇の中で。
     その声を水星の神が運んだ。夜哨の神、伝令の神、善き報せをもたらす神が、大いなる金星の許しを携えて、解呪の秘法とともに。だから、若者の声はよく響いた。木々を超え、森を超え、分け隔てる川を越えて、彼女のもとに。
     それは初めて聞く名だった。だけどすぐにわかった。
     それが自分の名前だと。愛する人がくれた、名前だと。

     魔女に宿る暗い炎は、夜の闇とともに消えた。かつて呪われたその島は、神の祝福に包まれて、今、暖かな春を迎えようとしていた。

    【投稿者:1: 3: ヒヒヒ】

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    コメント一覧 

    1. 1.

      なかまくら

      限界積読です。
      力作ですね。王子様の口付けで呪いが解けるように幻想的で、天上の星々の俗っぽさや、村の人々の文化的な停滞など、いろいろな要素が実に上手く交じり合っていると思います。素敵なお話でした。


    2. 2.

      けにお21

      小説の楽しみ方の一つに世界観があります。
      現実社会ではありえない生き物や環境を作り出し、もし読者をその物語の中に引き込む事ができたら、読者に不思議な疑似体験させることが出来ます。そうすると、読者は楽しい。

      しかし言うがやすくで、読者を引き込む事はとても難しい。
      この作品は、私を引き込みました。

      さて、作者予想。うーん。このような作品を作り出す方は、あの方かと。


    3. 3.

      茶屋

      缶詰です。
      一回では拾いきれず、二回、三回と読んで味わいました。
      素晴らしい作品です。神々の試練は娯楽なのかもしれませんが、そこに翻弄される人々にとっては超えるべき運命です。
      魔女を救い、また少年に慈悲を灯した魔女に祝福を。