ぼくらが宿しているものから解き放たれたとき、自由になれるのだろうか。
ぼくは、ひたすらに飛ばされ続けていた。魔法が働いているからか、腰の辺りが妙に熱く火照っている。そこを中心にぼくは星を巡る軌道に乗って、やがて眠って、また起きたりもした。カニが横をグルグルと回転しながら通り過ぎていった。そして、一度、勢いをつけるように下降すると、一気に上昇する。雲を突き抜け、見えなくなった。
*
たらばガニが自由を求め、それに誰かが応じた。カニは自由を得たならば、何をするだろうか。ふわりと浮き上がったカニたちは、社会のあちこちに現れた。カニたちは自由に食べ歩いた。何匹も捕まえられたが、研究の結果、脳の肥大化が確認されたくらいのもので、飛行ガニのメカニズムは分からなかった。そしてカニたちは、人間社会に飽きたかのように次第に姿を消しはじめていた。
「たらば蟹って、ヤドカリの一種なんだ。あ、それ、土産な」 高校を卒業して漁業の専門学校に行った友人が突然訪ねてくるというから、慌てて部屋を片付けたのは昨日のことだ。土産だという袋を開くと、馬刺しが入っていた。カショッと音がして、缶ビールが2本、開いていた。
「魚ばっかりだと、飽きるだろ?」 そう言って、一本渡してくるので、礼もそこそこにグビグビと胃に流し込む。袋を開けて、付属のタレに漬けて馬刺しを口に放り込む。うまい。
「助かるよ。最近、インスタント麺ばかりだったから」
「相変わらず忙しいのか?」「相変わらず?」「クラスでもなんやかんや、世話焼いたり勉強したり」「ああ、そうだったかな」「お節介なんだよな、お前って」「そう・・・だったかな」
馬刺しは、ひんやりとしていて、口触りがずいぶんと良かった。それからぼくは、グビッと喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「さっきの話だけどさ」「うん?」「ヤドカリの話」「おお?」
「カニの仲間じゃないって」「ああ。ヤドカリの一種だそうだ。とれたてはうまいぞ。それがどうした?」
「宿がないヤドカリは生きていけるのかって思ってさ」 ぼくは今抱えているある事柄が頭に浮かんでいた。
「甲羅はそりゃあ、自前だろう? 蟹だぞ」
確かに蟹だ。ところがどうだ、その蟹たちは。重力からさえも自由になろうとしている。その一方で、ぼくたちは限られた地面の上で小さくまとまっているのだ。
「もしも、ぼくらが誰かを非道く苦しめないと幸せになれないとしたら、その宿にぼくらは住み続けても良いのかな」
「へ? 何か難しいこと考えてんな?」 分からないけど、昔から滝次はそういうやつだった。案外よく分からない第六感みたいなやつで分かっていて、連絡をくれたのかもしれない・・・というのはあまりに自意識過剰か。一人苦笑して、例えばの話を続ける。
「例えばさ・・・」
*
「ほら、君はすぐにそういう顔をする」
瓶の中から彼女は微笑んだ。瓶だ。少し大きい瓶。寝転がることはできる。だけれども、瓶。その中で彼女は微笑んで見せていた。対照的にぼくは胸を締め付けられるような悲しい顔をしているらしい。けれども、瓶に映る自身の顔は、それすらも歪ませていた。
「だって、あなたにだって、正当な生きる権利があるはずなんだ。あなたにそんな仕打ちをしていい理由がぼくたちのどこにあるというんだよ・・・」
暗い実験室を常夜灯の豆球がボウッと照らしていた。
「君たちの幸せのためなんでしょう?」 そう言って、彼女が回した指先からは虹が生まれる。指さした先に流れ星がこぼれ、床に散らばった。彼女は魔法が使えて、だから、ここに閉じ込められている。
「幸せが何かなんて、誰が分かるって言うんだ」
「君たちは、政府の組織。幸せを方向付けて、ここで私を使って国中の不幸感を回収してる。そうしたら、相対的な幸せを手に入れられる・・・」
ぼくは、そうしていつも、いたたまれなくなってしまう。
「納得できる状況なんだ。この場所に悪意が集まってくる。だから、こんなにも非道いことができてしまう。世の中には幸福に基づく善が溢れ、社会は随分と綺麗になった。でも、ぼくは、近頃、すべてが逆なんじゃないかって思ってしまう」
「逆って?」 彼女は、さっきからなにやら真剣な顔で星を散らしている。瓶の中で、彼女の膝くらいまで星が溜まってきている。
「感染するのはいつだって悪意なんだ。悪性の腫瘍が身体の中に広がるように。そして、善意は小さな瓶の中でしか生きられない。人間によって作られたホムンクルスのように」
「私が、善意だって言いたいの?」 彼女の微笑みに、別の感情が交じっていく。
「私は、善意なんてものじゃないよ。忘れた? 高校を卒業間際になったあの日、校舎に隕石が落ちたよね。あれは、私が呼んだ星なのよ。あの星で、いくつもの幸福が死んだのよ。指の触覚が鈍くなってしまった青井くんはパティシエの専門学校を目指していたし、膝と肘の感覚神経が入れ替わってしまった鹿目くんはサッカーで推薦が決まっていたのに。私のせいなんだよ。私がここにいるのは、その罰なんだ」
「それだって、悪意を引き受けてしまった君に起こってしまっただけで、君だって被害者なんだから・・・だから・・・」
「じゃあさ・・・」
彼女は、さっきとは少し違った微笑みで、ぼくに笑いかけていた。
*
「それから、彼女は笑いながらこう問いかけるんだ。じゃあ、この瓶は何でできていると思う?って」
「魔法使いに、それを研究する研究員のお前?」
「うん、だから答えたさ。たぶん、それは悪意でできているんだよって」
「例え話なんだよな?」「・・・例え話さ?」
「分かった。もしも・・・だぞ。俺が善意で、閉じ込められている善意だと気づいたとする。そうしたら・・・」
「そうしたら?」
「そうしたら、もっと多くの人に善意を広めようと小瓶を壊そうとすると思う」
「滝次・・・お前って、やっぱりそういうやつだよな。ぼくが尊敬できる、良いやつなんだ」
「・・・例え話なんだろ?」
「ああ・・・だから、お前はどこか、遠くへ逃げてほしい」
荷造りのできている荷物をぼくは滝次に渡す。滝次の感情も、ぼくのこれも断じて善意などではない。
「なあ・・・俺さ、思い出したことがあってさ」
「時間が、ないんだよ」
「専門学校の入校式が早くてさ。卒業式の前からもう、船に乗ってたんだよな」
「そうだったな。なあ、時間が・・・」 もう、あまり時間が無かったぼくは、善意のあまり、苛立ちを隠した。
「最後にさ、クラスで集合写真とか撮っても良かったはずなのに、何の記録も残ってないんだよな」
滝次は、ハハハと笑った。
「お節介はどっちだよ・・・」 ぼくも、もう笑うことにした。
そのとき、彼女が現れる。入ってくる衝撃で、ガラスはすべて砕け散ってしまって、空気中にキラキラと星を散らしている。
瓶は、ぼくの善意によって割れてしまったのだ。
「おまたせ。じゃあ、しばらく待っていてね!」
そう言って、彼女は身の丈ほどもある杖を振りかぶると、ぼくを思いっきり打ち抜いた。
思い返してみれば、こうしてぼくは、飛ばされ続けていた。腰の辺りが熱く火照っている。そこを中心にぼくは星を巡る軌道に乗って、やがて眠って、また起きたりもした。彼女は、こうも言っていた。
「私、善意をこの星に満たしてみるね。あなたが再び地上に降りたとき、・・・私が出迎えに来ていたら、世界は善意に満たされたと言うこと。私がいなかったら、世界は悪意に満たされたと言うことだから。その世界をあなたに見せてあげようと思うの」
彼女が宿しているものは、善なるものなのか悪なるものなのか。
思い返している内に、地表には、火柱があちこちに現れて、消えた。
それがやがて収まって、ぼくは地表に向かってゆっくりと下降し始めた。
コメント一覧
魔女の一撃をストレートに使われるとは!
善意と悪意、不思議なお話でした。
動きのある描写や、場面の切り替え、世界観、が楽しかったです。
大勢の幸せのために少数を不幸にしてよいか、どうか。
あるいは、少数を幸せにするために大勢を不幸にしてよいか、どうか。
それとも、ある人にとっての善意は、別の人にとって悪意なのではないか。
うーん、観念的ですね。果たして彼女は最後に出迎えてくれるのでしょうか。
>ヒヒヒさん
感想ありがとうございます。
最初の一文の答えを出そうと思って書き始めたのですが、結局最後まで登場人物たちはたどり着けず、彼女に出会う出会わないの結論が出ずに終わってしまいました。出迎えてもらえたほうが嬉しいのかどうかも謎です・・・。
>けにおさん
感想ありがとうございます。遅くなってすみません・・・。
一撃は一応、史実に沿って腰のあたりが温かくなるように使ってみました。
悪意も善意も狂気のような、そんな気がしているのです。