「二指野(にしの)、フォークないの?」 カチャカチャと音を立てて、トレイを探していた津桑崎(つかざき)があきらめてこっちを向いた。
「うちは箸しか置いてないの」 テーブルの上に置かれたケーキと珈琲のお預けを食らって、二指野は少し不機嫌そうに向かいの席をあごでくいっと指した。
「だってケーキだよ!? ケーキといったら・・・」
「イチゴショートケーキ」 二指野が間髪入れずに答え、マジカルバナナに敗北した津桑崎がとぼとぼと席に着いた。
「いただきます・・・・・・おいしい!?」
「そらそうよ、私の手作りですぜ?」
「嫁に行きます!」
「おう、じゃあ、バリバリ働いてもらうからな!」
「へーい」
ケーキの最後の一口を名残惜しそうに、津桑崎が口に放り込んだ。
「・・・それで?」
「あ、ああ・・・ちょっと仮説を聞いてもらいたくて」
「仮説? いま、何を研究(や)ってるんだっけ?」 津桑崎は珈琲を一口含んだ。
「ものの運動についてだよ」 二指野は、球体を取り出すと、机の上を転がして見せた。
「・・・なぜこの球体は転がったんだと思う?」
「えっ・・・? なんでって、そりゃあ」
「いいからこたえて」
「そりゃあ、摩擦力が小さいから、かな?」
「摩擦が大きかったら・・・?」
「すぐに止まる」
「それが普通だよね」
「普通だね」
「じゃあ、これは?」
そう言って、二指野が取り出したのはサイコロだった。
「サイコロ?」
「そう、サイコロ。なんの目が出ると思う?」
「わかんないよ」
「そう、正解」 二指野はいたずらっぽく笑って、それを机の上に放った。
放られたそれは、パタリパタリと転がり続け、やがて、机の縁から消えていった。
「・・・はっ?」 思わず津桑崎の口から素っ頓狂な声が漏れていた。ありえない。
「あり得ない、って思ったでしょ? これが今の私の研究なの」
二指野とその話をしてから、10年の歳月が経っていた。あれから、世界は大きく変わってしまった。巨大地震が群発し、プレートは未だかつてない速度で動き出した。大陸には大きな裂け目が入り、水の流れも変わった。疫病は蔓延し、いくつもの国が無政府状態へと陥った。その中で奇妙な祈りが捧げられるようになっていた。大学を卒業し、ジャーナリストとなっていた津桑崎は、その偶像の正体を得ようとして、懐かしい名前にたどり着いたのだった。天野球、二指野由利・・・天野博士は、二指野の所属していた研究室の教授だった。それに二指野由利なんて珍しい名前、間違いなかった。
取材のアポイントメントを取るために、メールを送ると、天野博士から返事が返ってきた。「今、彼女と話をすることはできないが、会うことはできる」
いやな胸騒ぎがして、今日までろくに眠れなかった。
久しく会っていなかったというのに。飯の種にでもするつもりなのだ。津桑崎は取材場所の研究所へ向かう電車の中で、自分自身の薄情さに今更ながら、失笑し、二指野に最後にあった時の会話を思い出そうとしていた。そういえば、あのとき、遠くへ行く、というようなことをいっていなかっただろうか。外国なのか? と聞いたら、もっと遠くだと。
研究所の奥の空は妙に青く不透明だった。
「これが、いまの二指野なんですか・・・?」 思わず息をのんだ。遥かに想像の及ばないことが起こっていた。緑色の液体の中に、二指野は浮かんでいた。脳から脊椎を中心に無数のコードがつながれていた。
「身体は・・・ね」 天野博士は、彼女を収めたカプセルに手を当てて、優しくなでた。
「・・・いま、どのあたりなんですか?」 ほとんど見当外れな質問に思えたが、そもそも津桑崎には見当がついていなかった。
「みずがめ座の方へ向かって約40光年彼方にTRAPPIST-1という恒星があってね・・・。彼女は今、そこに向かっている。観測に寄れば、20光年を過ぎたところなんだ」
「そんなに遠くに・・・」
「我々は発見したんだ。ものが動きがこのようであるのは、ものの動きを学ぶことによってものの動きが無意識的に決められているからだと」 天野博士は、怒りを抑えるようにそう言っていた。
「お怒りの理由を、うまく共感できなくてすみません・・・」 津桑崎はもはや現状を受け止められていなかった。何を言って良いのか分からなかったのだ。
「つまり、自然哲学として科学が誕生したのは、我々の意識を支配するためだったのだ。それ以前には、科学では説明できない現象もいくつも起きていたという。ローマの十二面体だってそうだ。我々は未だにその使い方を知らないままだ。あれはどういう道具だったのか・・・。だが、我々は、絶滅か存続か、選ばなければならない時を迎えた。意識にはものを動かす力がある」
「意識がものを動かす・・・」
机の上には、あのときのサイコロが置いてあった。転がって、机の縁から消えていったサイコロだ。
「そうだ、意識が途切れるまで、動き続ける」
「つまり、彼女の意識はずっと続いていると言うことですか?」
津桑崎は息をのんだ。想像してしまったからだ。物理学で定義された光速を遥かに上回る速度で、彼女の意識は静かな宇宙を進んでいく。それはどんなに恐ろしい孤独だろうか。
「彼女は、確かに特異な存在だった。だが、それだけでは足りない・・・。眠れば、意識は否応なく途切れてしまうからだ。だから、彼女を常時半覚醒状態にし、それを補う形で、探査機に祈りを送ることにした。それはものの運動に対するそれがそうであるように、集合的無意識の一つとして、彼女の助けになるだろう」
話は終わりだ、と言われ、津桑崎はその場所を後にした。
私は、しばらく二指野と離れていて、意識を彼女に配っていなかった。
意識によって、結果が変わるというのなら、私の意識が途切れていなければ、二指野はいま隣にいたのだろうか・・・、津桑崎は空白の取材記録を見つめていた。
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