アホ毛を切って

  • 超短編 3,015文字
  • 日常

  • 著者:退会済み

  • 「もううんざりだよ!!!」
    そう叫ぶと同時に、私は玄関を飛び出した。
    毎日理由もなく私を睨み怒鳴りつける母のいる家から、家出したのだ。
    三年前、母は認知症と診断された。以前から短気だった母は、それによってさらに怒りっぽくなった。記憶障害が出はじめて、長く続けてきた茶道教室の講師を辞めざるを得なくなったことも、ストレスの原因かもしれない。突然訳もなく食器を投げ割ったり、時には私をぶって、身に覚えのないことを怒り続けた。段々と色んなことを、母は忘れてしまった。最初は病気なのだから仕方がないと耐えていたが、段々とヒステリーの頻度は増して、記憶もおかしな所が出てきて。それに伴うように私の身体に傷が増えていく事にも、もう耐えきれなくなった。
    二人暮しで認知症の母を置いていくなんて、傍から見れば酷い恩知らずだと思うだろう。しかし、その時の私にはそんなことを考えられる余裕なんてなかったのだ。そして、もう家に戻るつもりもなかった。家を出る時に、後ろから「何なのよ、アホみたいな毛立てて!」と母の声が聞こえてきた。アホみたいな毛とは、文字通りアホ毛のことだ。幼少期から私はいつも前髪にピンと頑固なアホ毛が立っていた。母は何かある事にそれをからかって、「何よ、アホみたいな毛立てて」と小さく笑うのだった。私にとって温かい思い出だったその言葉を、こんな時に使われるとは。
    暗くなっていた空は、私の気持ちに添うように大雨を降らせていた。全速力で自転車を漕いで、泥をバシャリと撥ねて坂を下る。
    他に行く宛てもないので、数年間交際している彼の家へ向かった。
    合鍵を使ってアパートのドアを開けると、彼は最初驚いた顔をしたが、すぐにニコリと笑って部屋にあげてくれた。その顔を見たら、堪えていた涙が一気に溢れてきた。
    「よしよし、頑張ったね。今日はうちでゆっくりしな」
    彼がバスタオルで私の頭を撫でると、雨に濡れてへたっていたアホ毛がぴょこっと顔を上げた。
    本当に頑固なもので、私が髪をセットしていないと必ず二本だけツンとななめ上に飛び出しているのだ。それを見た彼が、目を細めてふふっと笑い、からかった。
    「こいつらは今日も元気だね」
    ちょっと複雑な気分で、私も少し頬を膨らましつつ笑顔をつくる。
    お風呂に入ってさっぱりしたあとに、二人で少しテレビゲームをした。今日あったことの話をして、あたたかい彼の体温に安心して、ひとつしかないベッドで一緒に眠った。
    「明日は仕事もないし、温泉旅行にでも行こうよ。遠出してさ」
    彼の静かなつぶやきに、私は幸せをかみしめて返事をした。



     翌日はとても良く晴れた。彼の運転で、二つ離れた県までドライブをする。今日は星が良く見えそうだからと、露天風呂の有名な旅館まで泊まりに来たのだ。行き道の途中、森の中で猿や鹿、クマなんかを見かけては、その度にカメラを取り出してキャッキャとはしゃいだ。彼も昨日の私を思ってか、安心したような顔をしていた。三時間ほどして、目的地の旅館についたのが昼過ぎだった。
    ここの温泉は山の高い所に位置しているので、とても見晴らしがいい。テレビ特集などで時々取り上げられてはいるものの、結構な山奥にある上に今日は平日なので人は少なかった。
    女将さんに案内されて、私たちは今日宿泊する和室に入った。部屋は八畳ほどあり、二人で泊まるにはまあまあの広さがある。
    「じゃーん、実はゲーム持ってきたんだよね。ね、一緒にやろうよ」
    楽しそうにおどけた彼がトランプやちょっとしたボードゲームをカバンから出した。
    まるで修学旅行にはしゃぐ学生みたいだと思った。子供っぽいなあなんて馬鹿にしながら、しばらくそれで遊んで時間を過ごした。彼のそういう、ちょっと外れながらも気を回してくれるところに、何度か救われてきた気がする。
    そうこうしている内に夕方になり、まだ星は見えなかったが早めに温泉に入ってゆっくり浸かった後、部屋で女将さんが運んできてくれた山菜の揚げ物を食べた。
    この周りの山で採れた新鮮な食材を使っているらしく、とても美味しかった。
    野菜が苦手な彼は隣で海老やら白身魚やらの揚げ物をつまんでいたが、彼は彼でなかなかに美味しそうな顔で食べていた。

     日が暮れて真っ暗になった頃。部屋の障子窓を開けてみると、外の景色に思わず息を飲んだ。夜空に振りかけたみたいな光の粒が、美しくキラキラと瞬いていた。
    「私、こんなに綺麗な星空見るの初めてだよ。」
    「本当だね、すごい景色。」
    空を見上げながら、彼が私に目を向け微笑んでいるのがわかった。
    売店で買ってきた割高の発泡酒を開けながら、色々なことを話した。
    「私もう家には帰らないつもりだったんだ。でも、やっぱり明日帰ろうかな。あんなだけど、お母さんにも会いたいし。」
    そうだね、とだけ彼は言った。
    酔いが回って、気がつかないうちに眠ってしまった。

     目が覚めると、夜中の二時頃。お酒のせいで頭がズキズキと痛い。ぼーっとしていると、何か部屋の出入口の方でカサカサと音が聞こえた。不審に思い、静かに起きて周りを見回すが、彼の姿がない。その時向こうで、小さな明かりがついた。
    「あっ、ごめん。起こしちゃった?」
    彼の声だ。なんだ、と安心して胸を撫で下ろす。
    びっくりしたじゃん、少し責めたように言うと、ごめんごめんと彼が笑った。
    「実はお腹すいちゃってさ、売店にちょっとお菓子を買いに行ったんだけど。
    そしたら部屋に戻ろうと階段を上がった所でなんと君のお母さんにそっくりな女中さんに会ってさ。」
    何でまたこのタイミングでそんな作り話を、と思ったが、彼は続けた。
    「びっくりしてつい、お母さん!って言っちゃったんだよ。言ってから僕も、一度会ったのと写真で見ただけだから、ちょっと似てただけかな?とも思ったんだけどね。そしたら女中さんがね、『娘のこと、よろしくお願いします』って。僕がお母さんと呼んだから、ちょっとイタズラしたのかなと思って。でもなんか変わってるよね」
    「やめてよ何それ、嘘でしょ?」
    当然、そんな話は信じられなかった。
    「そんな嘘言わないよ。」
    母は茶道を嗜んでいて、認知症になった今でも欠かさずに毎日着物を着ている。
    なので女中さんと似ていたというのも無理な話とは言えないが、何故女中さんはこんな時間に廊下を歩いていたのだろう・・・。
    彼は、不思議なものをみたなぁというような顔で買ってきたまんじゅうを頬張っていた。


     翌朝のこと。広間で食事をしてからもう一度温泉にはいり、荷物をまとめて帰る準備をした時だった。彼が用事で部屋を出たと同時に携帯が鳴って、一本の電話が入る。
    警察からだった。
    「お母さんが、亡くなられました。」
    私は手が震えた。
    突然のことに、何も考えられなくて呆然とした。どうして?何が原因で?なぜ今なの・・・
    頭がズンと重くなって、涙が溢れてくる。しかし、すぐに涙を拭った。彼には今は言わないでおこうと、決心した。心配をかけたくない。
    帰りの車では、当然私は上の空だった。考えまいと押し込めようとしても、そんなことは出来っこなかった。陽気に話しかけてくる彼は、返事が釈然としない私を少し心配したように見ていた。昨日とは違い道が混んでいたので、パーキングで休みながらの運転で、彼の家に着く頃には夕方近くなっていた。荷物を下ろして部屋で息をつく彼に昨日からの感謝を述べてから、彼の前に立って私は言った。
    「ね、今日髪切ってくれない?このアホ毛も一緒にさ。」

    【投稿者: かにくり】

    一覧に戻る

    コメント一覧 

    1. 1.

      ヒヒヒ

      かつて愛情の象徴だった言葉が、いつしか憎悪の言葉に変わる。
      そしてそれもまた意味が変わって……2本のアホ毛に込められた意味が
      くるくる変わるさまが印象的でした。


    2. 2.

      退会済み

      ヒヒヒさん、読んでくださりありがとうございます!意識した所に気づいていただけて嬉しいです☺️


    3. 3.

      けにお21


      これは、凄い!

      とても、良い!

      かにくりさん、かなり、やりますねー!


    4. 4.

      退会済み

      けにお21さん
      ありがとうございます!!


    5. 5.

      なかまくら

      短い中に見事に詰め込まれていて、とても充実した読み応えでした! 楽しめました。

      なお、[イヴェント投稿] -> [ジャンル名:同タイトル] から投稿すると、同タイトルの欄に投稿できますので、また機会がありましたら、同タイトルにもご参加ください^-^