月曜日。晴れ、ときどき、黒猫。

  • 超短編 2,667文字
  • シリーズ

  • 著者: 1: 鈴白 凪
  • ○月△日。月曜日。
    晴れ、ときどき、黒猫。

     マフラーは、していない。
    ここ最近急に冷え込んできて、そろそろ持って行くべきか迷っていたけど、結局忘れてきてしまった。吹き付けてくる冷気に、私は思わず首を縮める。
     やっぱり少し、肌寒い。後悔を引きずりながら、まだかなり遠くにある学校へと向かう歩調を、少しだけ早めた。入学したばかりの頃は大変だったこの長い道のりも、今ではもう慣れたものだ。でも、今日はその長さが少しうらめしかった。
     眉をぎゅっと寄せて鼻をすする。すると、冷え込んだ空気の中に、ほんのり甘い香りがすることに気がついた。少し甘くて、すっきりとした爽やかな香り。多分、何かの花のものだろう。もう一度ゆっくりと吸い込むと、かすかな香りは澄んだ空気と混じって、溶けていく。
     しばらくその余韻に浸っていると、突然、何かが足元を横切った。思わず足を止めた私は、行く手を遮った黒い物体をに目を凝らす。道路の向こう側で立ち止まってこっちを見ている、青い2つの瞳。黒猫だ。
     ──黒猫が前を横切ると、不吉。
     ついそんな迷信が私の頭をよぎる。たった今見事に横切られてしまった私には、もしかしたら何か不幸なことが起こるのかもしれない。そう考えると、何だか黒猫がすごいものに思えてきた。前を横切る、たったそれだけの行動で、人の運命を変えてしまうんだから、なんて。
     そんな下らないことを考えているうちに、黒猫は姿を消してしまっていた。漂う花の香りをもう一度吸い込んで、緩んでいた歩調を再び早める。
     でも、あんな風に突然道路に飛び出していたら、むしろ黒猫の方が不幸になってしまいそうな気がする。
     まぁ、轢いたほうもある意味、不幸なんだろうけど。


     教室の扉を開けると、ひどく甘い匂いが鼻をついた。
     一度息を吐き、まっすぐ自分の席につく。窓側の、後ろから2番目。柔らかい日差しがほどよく当たり、この季節にはなかなか良い席だ。
     心地よい日溜まりの中で、開いた本の活字をぼんやりと眺めていると、ふわ、と欠伸が出てくる。欠伸を噛み殺し、じんわりと涙の滲んだ片目をこすっていると、前からコツン、という音がした。それに気づいて顔を上げると、続いて「わ、ごめんね」という声。
     どうやら、立ち上がった拍子に、前の席の椅子が私の机に当たってしまったようだった。
     別に、たいしたことじゃない。謝るまでもないような、些細なこと。
     顔を上げたまま表情の変わらない私と目が合って、戸惑っている様子の彼女。少しだけ、しまった、みたいな表情をしている。
     少しの間の後、「…ん、ごめんね」と私が返すと、その子はほっとしたように席から離れていった。
     中身のない、空っぽの言葉。それは何も考えなくても出てくるから、簡単だ。
     再び手元の本の活字に、視線を落とす。
     『季節はゆっくりと移り変わる。もしも一日で季節が変わってしまったら、動物も、植物も、きっと驚いてしまうだろう。』
     目に留まったのは、そんな文章。
     一見昨日と同じに見えるこの季節も、少しずつ、何かが変化しているんだろう。今日マフラーを忘れたことも、黒猫に横切られたことも、そんな小さな変化の一つ、なのかもしれない。
     授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、本を閉じる。チャイムと同時に教室に入ってきた背広姿の担任は、充満した匂いに顔をしかめていた。
     甘く濃厚で、どこか誇らしげな匂い。最近このクラスで流行っている、ユリの香水だ。学校側としては、校則違反である香水の使用をなんとかしたい思っているらしい。
     起立、と号令がかかり立ち上がる。先生は、しかめ面のまま。きっとこの後のホームルームでこの匂いについて苦言を呈するのだろうが、それでこの状況が改善されることもないだろう。
     礼をして、着席。そうしていつも通りの授業が始まる。
     立った時に、前の席の椅子がコツン、と私の机に当たっていた。



     足を止めたのは、朝と同じ場所。風に運ばれてきた、花の香り。
     昼間に太陽の光をたっぷりと浴びて、緩く暖かくなった空気と一緒に吸い込むと、朝よりも少しだけ甘く感じられる気がした。
     ほんのり甘いけど、どこか上品で。キンモクセイに似ているけど、そんなに目立つ香りじゃない。
     辺りを見回してみると、道から少し外れた目立たないところに、小さな白い花が咲いているのを見つけた。
     ──そう、なんというか、ひそやかだ。
     帰り道を少し逸れて、白い花を咲かせている木々に近づいてみる。見上げると、その枝に茂る葉っぱの形は、どこかで見たことがあるような気がした。
     思い出せそうで思い出せず、あれこれ考えながらトゲトゲとした葉っぱを眺めていると、その視界の端を何かが横切る。横切った物体は、見覚えのある黒色をしていた。
     どうやら、今日の私は相当に不幸らしい。
     しゃがみこんで、こちらを見ている青い瞳と、目線を合わせてみる。多分、朝と同じ子だ。
     小柄だがすらっとした手足の黒猫。よく見てみると、尻尾の先だけ白色をしているようだった。首輪がないのを見る限り、野良猫だろう。この辺りに住んでいるのだろうか。
     自分から出てきた癖に、私のことを警戒している様子の黒猫。私もその瞳を見つめ返し、しばしの間じっ…とお互いにらめっこをする。その内、その瞳に隠れたかすかな期待の色に私は気がついた。
     「…ごはん、ほしいの?」
     ふと思いついたことを、そのまま言ってみる。すると「ごはん」という単語に反応したのか、黒い耳がぴくりと動いた。どうやら当たりらしい。
     何か持っていたかな、と思いながら鞄のポケットを漁ってみると、出てきたのは四角い黄色の箱だった。私の常備食、カロリーメイトのチョコレート味。
     ──猫って、カロリーメイト食べるのかな。
     ひどく疑わしかったけれど、とりあえず試してみることにした。一口大の大きさに割った茶色い塊を、掌に置く。そのまま左手を、そっと黒猫に差し出した。
     すると。
     私が手を近づけた途端、掌の上の食べ物には目もくれず、私の左手を思い切り引っ掻いてきた。
     これが、今日の私の不幸とやらなんだろうか。黒猫が直々に運んできたけど。
     引っ掻かれた左手を見ると、傷口から赤い珠がぷっくりとふくらんでいた。
     ──痛い。
     ぴくりとも動かない表情のまま、傷口をじっと眺める。傷は思ったより深いようで、傷口から溢れ出る血に押し出され、綺麗な赤い珠の形はすぐに崩れた。
     つん、と鼻をつく、鉄の匂い。
     立ち上がりながら汚れたスカートの裾を払うと、左手を流れる血がついて、余計汚れてしまった。それに気づいて、真っ赤になった左手を、ゆっくりとスカートから離す。
     黒猫は、もういなくなってしまっていた。

    【投稿者: 1: 鈴白 凪】

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